物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

三人称視点と心理的距離のお話

こんにちは。伊藤卍ノ輔です。ツイッターは別名義でやってます。そこらへんのすり合わせは追々するかな、しないかな?

 

というわけで、本日は書評とかしてみようかと思ったのですが、書評したい本に対する読みこみが足りてないなぁと自分で考えて、とりあえず以前自分なりに学んだことを書いてみます。

ああ、書くの恐いなぁ自分みたいなど素人がこんなブログを……恥ずかしい……と言い訳のようなことを言わせていただきまして準備ばっちりです。

 

というわけでタイトルの通り、三人称視点における心理的距離。

まず物語の主人公と読者の間には、絶対的な距離があると思うのです、当然。例えどんなに感情移入してても、その主人公なわけではない。それだからこそ、その距離を前提しながら、作者(語り手)がどの位置に身を置くかっていうのがすごく大事になってくるわけで。

というわけで、「彼女に口ひげが生えていて、指摘したらひっぱたかれた」という状況設定の下、二つのケースを考えてみました。

 

①語り手が主人公に近い位置にいる場合

彼は彼女に、髭が生えてるよ、と言った。彼女に叩かれた。体が後ろに吹っ飛んで、後頭部に鋭い痛みが走り視界が真っ暗になった。

とやると、視点が「彼」にオーバーラップして、代弁者的な立場になる。

 

②語り手が読者に近い位置にいる場合

彼は彼女に、髭が生えてるよ、と言った。彼は彼女に叩かれた。彼の体が後ろに吹き飛んで後頭部をコンクリートに打ち付け、彼は失神した。

彼は彼はうるせーよ!というのはご容赦ください少し大げさにやってみましたごめんなさい。

ともかくこうやると、飽くまでも第三者視点で見たことのみの記述になって、「彼」と意識を共有する事は無い。「彼」とそうして距離を取った分、第三者たる読者に視線が寄り添う。

 

すなわち

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となるわけです。なんだこの素人丸出しなブログ、泣きたくなってきた。

とにかくこうなる。そしてこれどっちかというと②のほうが一般的なのかな?そっちのほうが多い印象。ちなみに自分は思いっきり主人公に寄ってしまう癖があるのでなにも考えずに書くと①になりがち。

そしてここまで考えてみると、じゃあ①と②のメリットとデメリットってなにさ! という疑問が出てくるので、自分なりにそこも考えてみます。

 

まず①のメリットとして、自分が考えたのは二つあります。

(1)臨場感がでる。例えば①の視点の取り方をして、語りを現在形多めにすれば、実際に主人公が見ているものをそのまま追っていくような語り方になる。色んな小説で、ハラハラするシーンなんかだと「タケシは追われているような気がして後ろを振り返った。誰もいない。また歩き出す。」のように三人称省略で一文短く、現在形多くなる、というのは正しく臨場感を狙ったものかなと思うのです。例えそこまでは読者寄りであっても、そこだけ主人公に入り込んで視点を共有するというか。

(2)感情移入できたときにガツンとくる。①の語り方をされた物語の主人公にもしも感情移入できたら、その感情移入を促進することが出来るのかな、と。まさに読者自身がその物語内部に入り込んでいく感覚を味わわせることが出来るのではないかと思うのです。語り手と一緒になって読者も主人公と視点を共有するという、そんな感覚。個人的にはそれは一人称の小説にもできないことなのでは? といまのところ思っています。何故かと言うと、一人称小説の場合は最初から語り手と読者は別人物だよ、視点を共有することはないよ、という暗黙の前提で書き始めるから。でも三人称の場合はそこらへんが曖昧なので、読者もその視点に入り込んでいけるのではないかと。

以上ふたつが、①に関する自分の思うメリットなわけです。ではデメリットはというと、これは自分が思う限りはとりあえずひとつで、それは感情移入出来なかったときに読むのがすごく苦痛ということ。

例えばアマゾンレビューとかでよく「主人公がぐずぐずしててむかついて全部読めなかった」みたいなものがあるんですが、それはすなわち感情移入できなかったということだと思うのです。そうして感情移入できないのに①の語り方をされると、完全に置き去りにされるというか、その物語そのものと心理的距離が空いてしまうのではないかな、と。主人公だけならともかく作者まで語り手まで一緒になって感情移入できないことを述べてるから、妙に冷めてしまうというか。

 

次に②なんですが、これはもう①の逆かな? と。端的に言ってしまえば、臨場感を出しづらい分、主人公に感情移入できなくてもそれをある程度離れた立場で語り手と共に眺める、という図式なので、読める。そして客観的な立場から主人公に対する評価が出来るので、寧ろ感情移入する必要はなくて、だからこそ感情移入できない主人公、という前提で書くことができるのではないかな、と。

 

以上のことは、素人丸出しな絵にすると以下の様になるのかな。

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そこで自分は考えるのです。①の書き方だと、日常の中の繊細な心理描写を描くのに向いてるのかな、と。例えば広くみんなに共感してもらえるような心の機微を、思い切って主人公に寄れるだけ寄って書く、というのもありだな……あ、「意識の流れ」?

ウルフとかマンスフィールドの「意識の流れ」の手法はそういうメカニズムなのかもしれない。だとしたら、その対偶たる手法、すなわち変なことを思いっきり客観的立場から書くというのもひとつ……あ、「マジックリアリズム」?

 

「いやいや、意識の流れもマジックリアリズムもそんな浅いもんじゃねーから!」と言われてしまえば、読書量の足りていない自分としては何も言えないのですが、少なくとも自分の中でちょいと辻褄があってしまった。んなるへそ、なるへそ。

そして共感できる主人公を、読者寄りの視点で書く、というのはまぁなかなかありそうな感じはするのです。共感しやすい主人公も客観的な視点も比較的アクのない書き方だから、大きく失敗することはなさそう。では逆にあえて共感できないような変な主人公に視点を寄せていく作品ってないのかな? と考えてみたんですが、自分の勉強不足かやっぱりそれはすごく難しいのか、思い浮かびませんでした。

エキセントリックな行動を起こしつつ、実はそこには切実な共感できる想いがあった、なんていうのは寧ろ「共感しやすい主人公」に分類されるものだろうしなぁ。まぁ難しいことには変わりないだろうけど。

というわけでそこの境地を切り開いていければ新しいものが書けるのではないかな? と思いつつ、しかしとりあえずもっと色んなものを読んでみないとなんとも言えないところかなぁ。

 

ちなみに、これは①と②が混じったような書き方なんじゃないかな、と個人的に思ったものがあります。

それが言わずと知れた、町田康さんの「告白」。

地の文はすごく客観的で読者寄りなんです。例えば冒頭は

 

「 安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。

 父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。

 あかんではないか。」

 

 

となっています。有名な冒頭……だと思う。

客観的立場から主人公の熊太郎を描きつつ、あまつさえ「あかんではないか」と完全に読者寄り目線から突っ込みを入れてる。これ本当にすごい。ちょいと個人的感想がでてしまいましたがともかく、基本的にこの視点の取り方、すなわち熊太郎と結構距離を取った語り方に終始してるんです。が、それなのに地の文にちょいちょい熊太郎の心の声、物語論的言い方をするなら直接話法が織り交ぜられるんです。それがぐぐっと感情移入を促す。すなわち主人公と結構距離を取りながら、意識の流れ的なことをやっているんじゃないかな、と。

ただ、これ危険なのが、一回やろうとしてみたことあるんですが、物語を書く力がある程度ないと機軸がブレる。客観的立場から書いてたつもりが、気が付くと視点が思いっきり主人公に寄っちゃったりする。

いまならこんな風に書けるかなぁちょっと試してみよう。

 

 

というわけでなんか本当に「お前のことはどーでもいいわ!」という声がちょいちょい聞こえてきそうなブログになってしまいました本当にごめんなさい。

初の真面目なブログ更新でしたが、こんなに疲れるもんなんですね! びっくりしました! ブロガーと呼ばれる方々への敬意が増しました!

今回のテーマと自分が語ったことについて、意見なり反論なりを抱いてくださる方が万が一いらっしゃれば、お気軽にコメントいただけたらとってもとっても嬉しい!

それでは目が霞んで頭がぼんやりしてきたので今日は少し本読んで眠ります。

最後まで呼んで下さったかたいたら本当にありがとうございます!

 

 

灯台へ (岩波文庫)

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百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

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告白 (中公文庫)

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