物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

描写と物語の奥

どうもこんばんは朝見ていただいてる方はおはようございます伊藤卍ノ輔と申しますがこうやって自分で勝手につけた名前を名乗るのってすごく恥ずかしいですよね。

すごく久しぶりのブログですが、忙しくて書けなかったとかそういうわけではなくて、純粋にもっと物語への理解を深めてから更新したいという気持ちがすごく強くてですね、それで最近ちょっといままでよりは奥に入りこめた感じがあるので、それも含めて書きたいと思うのです。

 

最近Twitter上で「へたくそな作家ほど描写がクドい」というようなツイートが大荒れしてるのを目撃しました。まぁ、荒れるよね、と思う。言い方がちょっとアレなので。

でも、言い方がアレじゃなくても賛否両論を巻き起こす議題ではあると思うのです。

そのツイートをしてらっしゃった方は、「描写なんかクドくしなくったって、繁華街なら繁華街と一言で言っちゃえばあとは勝手に読者が脳内で補完する」ということをおっしゃっていました。

それに対しての反論は、「描写の多い小説で物語に身を浸しながら読むということもあるんだ」「行ったこともない場所は丹念に描写してくれたほうが豊かに想像できるんだ」というものでした。

ごもっとも! どっちもごもっとも! と思う。どっちの言い分も大いにあると思う。じゃあなんで正解のない描写問題で、こんなにも賛否両論が渦巻いてしまうのか、そこから考えていきたいと思うのです。

 

最初にツイートした方の言い分として、描写を丁寧にすると物語の流れが悪くなるんだ、というのが念頭にあると思うのです。だから風景を描くのは読者の脳内に任せて、テンポよく物語を進めていった方が面白い作品になるんだ、と。

これも的を射てると思う。と同時に、あいや待たれい、とも思う。

物語の流れが悪くなるって否定的な立場で語られることが多い論調だけど、果たして物語にブレーキをかけるのはデメリットしかないことなのでしょうか。

先ずは以前のブログでも書いたことなんですが、物語論では

①要約法

②情景法

③休止法

④省略法

という四つの時間の進め方があると言われています。④の省略法は、物語のある時間をばっさり省略することで、例えば「それから四年の月日が流れた」みたいなのが一番わかりやすい省略法なのですが、これは今回関係ないので割愛。

①の要約法はつまり、要約した書き方でこれは読んで字のごとく。②の情景法は物語の時間の流れと現実の時間の流れが近い感じ、というとわかりいいでしょうか。つまり要約せずに、所謂「描写的」書き方をするのがこれ。それで③の休止法は、完全に物語の時間を止めてあたりの風景なんかを細かく丁寧に描写するもの。

恐らく最初にツイートされたの発言を上に当て嵌めると「へたくそな作家ほど情景法と休止法が多い」ということになるのではないかと思うのです。

そこでちょっと次の文章を色々いじくりながら、情景法と休止法が物語においてどんな役割を果たすのか実験してみたいと思うのです。

「私は森の奥深くに入って行った。進んでいくと、足元にムカデがいるのに気が付いた。」

これは要約法的に書いたものです。森も、木も、ムカデも、同じくらいのウェイトで文章の中に存在していると思います。ではここでムカデをピックアップして、このムカデをいかに印象的に描くか、ということを考えてみます。

ロシアフォルマリズムの異化という概念はつまり、「物の手触りをしっかりと感じられるように書く」というのが主要な目的としてあります。自動化作用からの脱却、的なことです。これをムカデに適用してみます。

「私は森の奥深くに入って行った。進んでいくと、足元にムカデがいるのに気が付いた。直径十センチメートルほどの肥った体は油で濡れたように日差しを照り返し、産毛の様な無数の脚が波打つように動いている。」

文章の善し悪しを云々するのはやめてください! 僕だって頑張ってるんですよ!

とにかくムカデを異化してみましたが、これは休止法的な書き方になります。さっきよりムカデの存在感が増したのではないかと思うのです。

それで、ここまでは描写否定派の方にもご理解いただけるとは思うのです。「印象付けたいものをしっかり描写するのは当たり前、それ以外の描写はなるべく削った方がいい」という主張もでてくるかと思います。勝手に思っているだけですが。

でも上の文章は短いからいいのですが、例えばテンポよく進んでいる物語の中にこうして異化されたものがはいってきたらどうなるかな、と考えてみると、眼が滑ってあまり印象に残らず読み飛ばされちゃうんじゃないかなと思うのです。

そこで先ほど自分が言ったことを再度主張したいのでうすが、本当に物語にブレーキをかけることってデメリットばかりでしょうか。

というのは、異化したもの(というか異化云々に限らずしっかり見せたいもの)をしっかり見せたければ、その前で物語に一旦ブレーキをかけて、じっくり見せる、ということは非常に有効なのではないかな、と思うからそんなことを言うのです。敢えて物語のテンポを落とす、ということなのですが。

要するに、要約法はテンポが良すぎて目が滑るから、「要約法→情景法→見せたいもの」と書けば、見せたいものがよりしっかりと浮かび上がってくるのではないかな、と。そこで情景法を挟んでみます。

「私は森の奥に入って行った。木漏れ日が腐葉土の上にまだらに落ちて、ときどき風が吹いて梢が揺れると、その模様も一緒になって不安定に揺れる。その日に照らされたところに、紐の切れ端のようなものが落ちているのに気が付いた。見ると、ムカデだった。直径十センチメートルほどの肥った体は油で濡れたように日差しを照り返し、産毛の様な無数の脚が波打つように動いている。」

やめてください! 僕の文章の拙さはどうでもいいんですそんな話をしてるんじゃないこれでも一生懸命なんです!

言い訳をしないと気が済まない性分なのでごめんなさい。やっぱりこんなに短い文章だとわかりづらいかもしれませんが、それでも最初の文章よりも二番目、二番目の文章よりも三番目のほうがムカデが印象的に書かれてることは感じ取っていただけるのではないかな、と思うのです。

 

物語のテンポが悪くなる、というのをうまい具合に言い換えれば、物語の認知を遅らせることができる、ということだと思うのです。そしてその効果をしっかりと把握した上で文章を書いていくことはすごく有効なことだと思うのです。

それで、これって意識するしないにかかわらずみんなある程度やってるんじゃないかな? と思いますがいかがでしょう、実作する方々。

もっとわかりやすく言えば文章をタメる、みたいなイメージなのですが、たとえばテンポよく進んでいる物語で重要なシーンを書きたいときに、その前段でタメのシーンを挟んだりしないですか?

自分の書いた文章だけ読んでいただいても仕方ないのでちょっと実際の作品から認知を遅らせることで効果を上げている実例を。

 夏目漱石さんの夢十夜の第一夜。

冒頭で印象的な描写が描かれた後に、女が「私はもう死ぬわ」と言ってそこからテンポよく会話が数回続けられるそして

 

 「百年待っていて下さい」と思い切た声で云った。

 「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

 自分は只待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱した様に、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。

 

これ、たとえば

 

自分は自分は只待っていると答えた。すると、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。

 

にしてしまうとこんなに鮮やかな死に様にならない。もちろん夏目漱石さんなんだから描写がうますぎるというのもあるけど、この描写には認知を遅らせるという効果もあると思うのです。それまでの会話文がテンポがよかったので、尚更そういう風に書きたかったんじゃないかな、と。

 

あとはもう少し違う観点から。保坂和志さんの未明の闘争という小説があります。これについて芥川賞作家の磯崎憲一郎さんが「どこまで手荒に扱っても壊れないものか、小説という形式の頑強さを試しながら書いているような印象を私は持った。」と言ったとのことなのですが、それほど手荒で不思議な小説なのです。

あらすじを説明する意味がこれほどにない小説も珍しいですが、とにかくシーンとしては公園のベンチで主人公が不倫相手に膝枕をしてもらっているところで、公園の描写にはいる。そしてそこから延々と描写が続くのです。主人公の眼を通して見える公園の景色。

どれほど続くかと言うと、なんと21ページも続きます。その間ずっと物語にキツいブレーキがかかりっぱなしで、一向に進む気配が見えない。

その間読者は完全に主人公と視点を共にするのです。野点やら、それを撮る海外の方やら、犬の散歩やら子供たちやら……。

多分主人公が経験した時間を描写によって再現する、ということをしてるのではないかと思うのです。

あともうひとつとして、敢えて物語を止めてる。

この小説の変なところは、現在から回想シーンにはいって、その回想シーンにいつの間にか物語の軸が移っててもう現在には戻って来なかったり、回想から回想にいってその先で曖昧な記憶を語ったりあり得たかも知れない現在を語ったりするっていうのがごちゃごちゃに入り乱れてるところなのです。

そうやって小説内に流れる時間を極端なほど手荒に扱った小説なので、多分その一環として「時間を止める」ということをしたのじゃないかな、と。それって描写による認知の遅らせを「テンポが悪くなる」という側面でしか語らなかったら絶対にやってみようと思うことじゃないと考えるんです。

つまり描写がもつ効果を知ってるからこそ、こういうことも出来るんじゃないかな、と。

 

そんな感じで、とにかく描写というのは確かに物語のテンポを削ぐという側面があります。だから物語のテンポだけを重視したいなら極力入れないほうがいいかもしれません。一日で軽くサクッと読んで、「ああ、一気に読んじゃったよ!」となるような物語を書くには、確かに描写はあまり必要ない。

だけど物語敢えて遅らせることで、しっかりと見せたいものを見せることも出来て、それをやるには描写というのは最も効果的な手法のひとつだと思うのです。

 

それで、更に言うと、そうやって描写を駆使することってテクストの表面上の問題だけじゃないんですよね。つまり「なにがそこに書かれているか」以前の、「どういう風にそれが書かれているか」という問題であって、その「どういう風に」が実際に読者に起こす反応あdったり、与える印象だったりを深く突き詰めていくことが、物語の奥に入り込む鍵なのではないかと最近思うのです。

例えば先日芥川賞を受賞した今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」。

これ、テクストの表面で書かれてることを見ただけだと別に面白くないんです。世間で変人だと思われてた人が会社にはいって不倫して逃げるだけの話なのです。でも物語の骨子はそこにはない。

この小説の一番のポイントは、世間で変だと思われてた女を、主人公が徹底的に観察することで、変な人と普通な人が徐々に反転していって最終的に完全に入れ替わってしまうというところなのです。

それを書くにあたって、何時何分、むらさきのスカートの女は~した、みたいに徹底的に細を穿つ観察を展開するのですが、それによって今村さんが書きたいのはその時間にむらさきのスカートの女がなにをしたかではなくて、そこまで細かく観察する主人公のある種の狂気を書きたいのだと思うのです。それこそが、「どういう風にそれが書かれているか」によって描き出されるものだと思うのです。

 

あとはカミュの異邦人の冒頭。「きょう、ママンが死んだ。」は有名ですが、それに続く文章もすごく考えられてる。

 

きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。

「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これではなにもわからない。恐らく昨日だったのだろう。

 

本当なら、母親が死んで悲しむべきところで、主人公のムルソーはどうでもいいことをつらつら言う。テクスト表面で書かれてることは母親が死んだけど、昨日なのか今日なのかはっきりしないということだけですが、カミュが書きたかったのは母親が死んだのに時間を気にしている=母親の死への興味の薄いムルソーという人物、なのかなと思うのです。

たとえばそれをテクストの上だけで表すならば

 

きょう、ママンが死んだ。しかし私には興味がなかった。

 

となると思うのですが、これを敢えて上記のように書くことによってムルソーの人物像と言うのがより際立つようになっているのです。

 

多分描写不要・必要論争が激化してしまうのって、もちろん好みの問題もあれば、最初の方の言い方の問題もあるとは思うのですが、それ以上に「どういう風にそれが書かれているか」という観点から小説を解体するということがあまり一般的じゃないからじゃないかと思うのです。そういう観点から見れば、必要なところで描写をいれて、不必要なら削げばいい、となるでしょうし。

料理が下手なやつは醤油を使う、と言ってるのと同じことで、必要な料理には使えばいいし、必要じゃないならいれなければいい。じつはそれだけの話なんじゃないかな、と。そしてそれを「それは好みの問題だ! 俺は醤油が好きだ!」という方向から語るから、どうしても話が平行線になってしまう。

 

 

と、ここまで語ってきてなんですがこれは飽くまでも自分の勝手な持論ですし、しかももっと小説に奥深くがあるかもしれなくて、自分なんてまだまだそこが見えてないペーペーなのです。

もちろんこの記事によって誰かを非難したりする意図はありません。ただ炎上したツイートを元に語り始めたからどうしてもそういう雰囲気が付きまとってしまったかもしれない。うむむ困った。誰のことも傷つけずに生きてみたい。

 

というわけで今日はもう遅くなってしまいました!時間かかっちゃうねこういうの!映画見てから寝たかったのに絶対無理だ!

 

いまは公募用の応募作も書いてるしそれ以外にも読書会やら合評会やらあって小説で忙しいので更新までまた時間あいちゃうかもしれませんが、また自分の中で発見があれば更新は必ずします! 興味ないなんて言わないでください淋しいですから!

それではおやすみなさい。