物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

人物像と、小説が作る世界像

どうも伊藤卍ノ輔という名前でやっていますよろしくお願いいたします。

小説を書くにあたって、改めて自分はたくさんの先人たちの影響を受けているなぁと感じるのです。

先日地方文学賞に応募するために書いた小説の一部が好きな作家さんに似てしまって、でもそれって成長過程においては必ずしも悪いことじゃないなと思うのです。要するに自分の引き出しとしてしっかりとストックされたことの証拠でもあるので。

むしろ意識的に影響を受けていって受けていってその先で自分自身にしか書けない言葉がぽろっとでてきたときこそ、本当に自分が言いたいことが言えている、書きたいものが書けているってことなのではなかろうか、とふと思いました。そんな気持ちで読んだり書いたりしています。

 

といういつもの前置きらしきものをはさみまして本題に入ります。

最近名作と呼ばれるものを読んでいてふと思ったのですが、長く残っている物語ってやっぱり人物に魅力がある。共感したり、ときには反感を抱きながらもどうしてもその人物に魅せられないではいられない、ということがかなりある。

逆に読んでいて「これあんまり好きじゃないな」と思う物語ってどうしても人物を好きになれないのです。それは「この人物の考え方が嫌い」とかそういう話ではなくて、人間としての奥行が見いだせないのです。

ここでロシアの文芸理論家であるユーリーロトマンがその著書の中で述べていることを少しご紹介したいのですが、やっぱり文芸理論家だけあって言い回しがややこしく感じられがちだったりするので、ワケワカンネーと思ったら飛ばして下さっても大丈夫です。

 

「芸術的なモデルは、はじめから対象とはちがった構造として作られる。マンモスや野牛の壁画のように、人類の先祖がはじめて芸術的モデルを作ったときから、そこに描かれた絵は、現実のマンモスや野牛とはちがったものだ、と諒解されていたのである。動かない線描が、生きて動く、熱い血をそなえた獣をあらわす。それは単なるかたちのモデルをこえて、対象の内部にあるものを表現するモデルである。ひとつの人間の彫像を、科学的モデルは、人体のモデルとみなすが、芸術的モデルは、人間のモデル、さらには人間的体験のモデルとして作り出す。ロダンバルザック像は、人体のモデルではなく、バルザックという人間のモデル、さらには人間的体験のモデルである。」

 

自分はこの文章をパソコンに打って写しながらやっぱりすごく納得感があるなぁと感じるのです。

ここで言う人間の芸術的モデルというものを小説内の登場人物と限定して考えると、つまり登場人物はたんなる人体のモデルではなく、具体的なその人物としてのモデルであり、その人物の人間的体験のモデルであるとロトマンは言うのです。

そうしてもう少し引用すると、

 

「芸術作品としてのモデルは、それ自体ひとつの具体的な表現だが、同時にそれを越えた、普遍的なものの表現である。さきのバルザック像は、実在したバルザックという人物の像であるとともに、人間そのものの像でもある。具体性そのものが普遍性を帯びるのだ。」

 

つまり登場人物がたんなる人体のモデルを越えて具体的にその人物の像となったときに、その人物像は普遍的な人間のモデルともなりうる、ということなのです。

裏を返せば具体的な人物としてのモデルになりきれていないような登場人物には普遍性がなくて、そこには人としての重みだったり必然性が欠落してると自分は思うのです。そういう人物がでてくる小説がどうしても自分は好きになれないのだな、と。

 

自分はとなりのトトロが好きなのですが、お父さんが寝坊している間にさつきがお弁当と朝ごはんを作るというシーンがあります。そしてさつきは友達に呼ばれて、みんなより早くご飯を食べ終わって学校に行ってしまう。

ここでお父さんが喋るのは「すまん、寝坊した」と、「今日から私お弁当よ」と言われて「しまった、忘れてた」というシーンと、「もう友達が出来たのか」と、食事中にめいに「座って食べなさい」というところだけなのですが、結構よくありがちなシーンとして、こういう場面で「いつもごめんな」「ううん、私は大丈夫!(ガッツポーズ)」的なのがあると思うんです。

しかしこれをやってしまうことによって一気に人物に深みがなくなる。何故ならそのシーンって人物を説明する意図で設けられたものであって、つまりそのシーンが語るのは「いつも頑張ってる娘と、それに頼らざるを得ない男手一つのお父さん」という域をでない。現実にはそんな会話はほとんどしない。そういう説明的なシーンを挟んじゃうことによって、人物が一気にステレオタイプな型に納まっちゃって、具体性を失ってしまうと自分は思うのです。

たしかに人物のバックボーンは大事なのですが、そのバックボーンを説明するためだけのシーンを、現実的にはまずしないであろう会話によって作ってしまうと、受け手はたしかに理解することは出来るけどその分感じる余地がなくなってしまうと思うのです。

じゃあなにが大切かというと、バックボーンを丁寧に作った上で、その前提のある登場人物がこういう場面ではどういうことを言うのか、どういう行動を起こすのか、というのを想像力を駆使して考えることだと思うのです。その想像力によって具体性が高まって、それが人間の普遍性へとつながっていく。そこで説明的なシーンは妨げにしかならない。

地の文で説明するのはよいと思うのですが、説明的なシーンは「現実じゃそんなこと言わないだろ」となって感情移入の妨げになると考えます。

今更ですがこの普遍性と言うのは、受け手がたんなる共感を越えて、「あ、これ自分の事じゃん」と感じることができるもので、そういうのって住んでる地域とか時代を越えるものだと自分は思うんです。

ここでもうひとつ具体例をあげると、志賀直哉氏の「流行感冒」において、主人公(恐らく志賀氏の分身的な存在)が妻と女中にきつい言い方をしてしまったあとで、「なんかこれじゃ俺が悪いみたいじゃねーか。でもたしかに言い過ぎたかもしれない。ちょっとかわいそうなことしたな」と思うシーンがあるのですが(完全に自分の主観による意訳)、その気持ちってすごくわかるし、いつの時代でもあの流行感冒の心の微妙な移り変わりって共感を越えて「俺の事じゃん」的な感情を誘いうるものだと思うのです。それは感情と言うものをステレオタイプな形で捉えずに、感じたまま具体的に書くことによって、具体性を帯びているんだ、という言い方ができると思うのです。そしてそれが普遍的な人間像というものなんじゃないかな、と。

たとえばこの流行感冒において主人公をステレオタイプな頑固じいさんと設定して、妻と女中を叱ったあとでも「ふん、俺は悪くねーからな」的な書き方がされていたら自分はここまでこの物語に惹かれなかったと思うのです。具体性の欠落した、物語進行のためだけの人物像になってしまう。

もちろんそういうことを逆手にとって「敢えて」ステレオタイプな人物像を作り上げる、というやり方もあってしかるべきだし、自分が言いたいのはそれを考慮にいれているかいないかなんだ、ということをわかっていただきたいのですが。

 

ここで人物像というものからもう少し敷衍して世界像というものを考えてみます。

小説は物語という形をとる限り、ひとつの世界のモデルを形つくっているものだと思うのです。だけどその世界像も具体性を失ってしまえば、それは普遍的な世界ではなくなってしまうんじゃなかろうかと考えます。

具体的な世界像とはつまり、ロシアフォルマリズムでいうところの「異化」された世界像。すなわち理解ではなく感じることのできる世界。読んでいると手触りとか匂いとか五感が実際に刺激されて、その世界に入り込んだ時の皮膚感覚さえ感じられるようなそんな世界像。

たとえば大江健三郎氏の小説なんかは、読んでいると本当にその小説の世界を満たしている粘着質で重たい空気感がこっちにまで伝わってくるような感じがするし、トルストイ氏(例によって違和感ありありな敬称ですがこれ以外思いつかないので許してください)の戦争と平和なんかも、実際に当時のロシアの社交界の息遣いが五感を使って感じられるような気持ちにさせられるのです。

そうやって全身に感じる世界像っていうのは人物像のときに述べたように普遍的であって、その普遍的な世界像の中で普遍的な人物像が動き、その結果として物語が生まれた、という関係性が出来上がって初めて、その物語が説得力を持つのではなかろうかと思うのです。現実世界では、運命論を信じない限り、先に決められた事柄があってそれによって人間が動くのではなくて、人間が動くことによってある現象が起きたりして、それをあとから考えたときにひとつの物語と呼びうるのであって、そういう風に人物が先行する形で物語を作らないと、現実に起こりうる世界のモデルとはならない、すなわち普遍的な世界のモデルにはなり得ない、と自分は考えるのです。先にプロットがあってそこから登場人物を作るのがいけないとかではなくて、書き方として、ということですが、もちろん。

 

もっというと、そうやって具体的な手触りを伴って作られた物語を読むっていうことは実際の経験にも劣らないと思うのです。

自分の記憶の中に、暗い路地で一層明るく光る八百屋さんの光景があるのですが、これは実際の経験ではなく、梶井基次郎氏の檸檬を読んだ時にイメージとして自分の記憶に蓄積されたものなのです。

暗い浜辺を見ればなによりもまず芥川龍之介氏の蜃気楼の後半の光景を思い出すし、天体観測が好きなので星の綺麗なところにちょくちょく出かけるのですが、そうすると必ず宮沢賢治氏の銀河鉄道の夜のシーンを思い出す。浜辺の西洋風の家はサガン氏の悲しみよこんにちはを思い出すし、納棺師をやってたころ縊死の故人様に出会う度に茨木のり子氏の詩を思い出していました。

記憶って実際に見たわけじゃないのにはっきりと自分の中に蓄えられていて、それは実際に見た記憶にも遜色のないほど、むしろそれより鮮やかな印象で残っていたりもする。

物語の世界に普遍性を持たせることで、同時に読書体験が経験になる。それこそ小説というものの途方もない可能性なんだということを自分は信じているのです。

読書体験が直接自分の人生に影響を及ぼしているな、と感じるとき、それはその物語が持つ前向きなメッセージを実際に駆使して困難を乗り切ったときに留まらないと思うのです。小説がその役割しか果たせないなら自己啓発本だけ読めば十分だと思うのです。

そうじゃなくて、小説を読んで、それを経験として自分の中に蓄積することによって、もっと根本的な価値観に少なからず影響を受けていて、だからわかりづらいけど、たしかに、そして根本的に自分の少なくない成分は読書体験によって形作られてきたと断言できるんです。

 

ちょっと前にツイッターで「小説がアニメや映画に勝っている部分ってなに?」という議論を頻繁に見かけた気がするのですが、それは手間がかからないとか自由度が高いとかそういう表層的なことじゃなく、小説が経験であるということだと思うのです。

そういう意味では直接的に視覚聴覚に訴えかけてくるアニメや漫画って、実際に自分の経験として蓄積しづらいと思うのです。自分はアニメや映画について、そっちのフィールドで実作を志している人たちより考える機会は無論少ないので確たることは言いづらいですが、少なくとも作品の世界を「経験させる」という面においては小説に分があるのではないかと思っているのです。アニメや映画のワンシーンを思い返す時、少なくとも自分はその映像として思い出す。でも小説の場面っていうのは経験として思い出す。だからこそ自分は小説に強く惹かれて小説を書こうと思ったのだな、と最近つくづく考えているのです。

具体的に作っていくことによって、普遍的に開かれた世界を読者に経験させる。小説のそういう側面を考えたときに、自分は小説の持つすごすぎる可能性にただただ驚いてしまうのです。

小説ってやっぱりすごい! 俺も誰かの経験となって、確かに蓄積されるようなそんな物語が書きたい!

 

ということで、最後らへんは主観パラダイスになってしまいましたが、最近自分がずっと考えていることをやっとブログにできました。

それで、ここまで熱く語っておいてナンですが、これは小説とか物語っていうものに対するひとつの考え方でしかないわけです。

もちろん「それは違うぞ馬鹿だなこいつは」という意見があっていいと思うし、それぞれがそれぞれの小説観をもっていればこそ、その可能性が限りなく拡がるものだと思うのです。だから反論は無論あるだろうし、そういうのがあればやっぱり「自分はこう思う」ということを教えていただければすごく嬉しいのです。

 

というわけでもうさすがに寝ます。いくら明日お休みだからって夜更かししすぎましたこれじゃ生活リズム狂って仕事中ネムネムでお小説の事考えられなくなっちゃう! 困る!

 

ではではおやすみなさい。そうして起きてから読んで下さった方おはようございます。日中読んで下さった方こんにちは。晩になってから読んで下さった方こんばんは。よろしければコメントもお待ちしています!

 

 

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