物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

物語内部における時間の進め方

こんにちは伊藤卍ノ輔ですがツイッターではプレアデス人間と言う名前でやっております。ややこしくてごめんなさい。

タイトル関係ない話になってしまうのですが、自分はつくづくブログを書くのが下手だと思ってしまうのです。そしてその原因は普段あまりブログを読まないせいかな、と。まぁ調べ物をしてるときに検索するとブログがでてきてそれを読むくらいなのです。

だから書き方がわからない。他のブログがどんな構成でどこまで内容を掘り下げてるのかわからない。

そして同じことは小説にも言えると思うのです。

幅広く読書をすればその分だけ他の小説の構造、描写、書かれている内容などの見識が拡がる。その知識は作品を書く上での土台としては欠かせない。だからたくさん幅広く、それでいて深く読む、すなわち実作するということと同じくらい「読む」ということは大事なのではないかと。

下手くそなブログを書いていく中でそんなことを思いました。

 

本題に入ります!

物語内部における時間の進め方。

これを意識するようになる以前と以後で全く自分の作品の書き方が変わりました。レベルが一気に三つくらい上がった気がした。それまで漠然としてた「物語を作る」という行為が具体性を帯びたというか、そのくらい自分にとっては大事な考え方でした。

以下、フランスの文学理論家のジェラール・ジュネット氏が著した「物語のディスクール」を大いに参考にさせていただきながら、芥川龍之介氏の「蜃気楼」を僭越ながら少し紐解いてみようかと思います。

 

まず物語を作っていく上で、四つの時間の進め方がある、とジュネット氏は説きます。この考え方が自分にとってはかなり重要でした。それが、

 

①休止法

②情景法

③要約法

④省略法

 

です。

①の休止法っていうのは、情景描写を考えてもらえるとすごくわかりやすくて、要するに写真でも見ているかのように、物語に流れる時間を止めて書いていくやり方。

蜃気楼でいうと、

「海は広い砂浜の向うに深い藍色に晴れ渡っていた。が、絵の島は家々や樹々も何か憂鬱に曇っていた。」

の部分。

 

②の情景法っていうのは、物語を時間の流れに即するように描写していく方法。要するに、時間は動いているけど現実と同じような速度で、といった感じです。

「そこへどこかから鴉が一羽、ニ三町隔たった砂浜の上を、藍色にゆらめいたものの上をかすめ、更に又向うへ舞い下った。と同時に鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った。」

 

③の要約法はその名の通り、要約して物語を語るやり方で、一つの段落で何年もの歳月が流れることもあれば、一時間半時間をちょいと要約的に語ったりもします。

「僕等は東家の横を曲がり、次手(ついで)にO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹(とねりこ)のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。」

 

④の省略法もこれもその名の通り。何年も省略することもあれば、数時間だけ省略することもあります。

「 O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉には答えなかった。が、僕の心もちはO君にははっきり通じたらしかった。

 そのうちに僕らは松の間を通り、引地川の岸を歩いて行った。」

 

以上の①~④の「物語の時間の進め方」っていうのは、個人的には結構物語の根幹をなす考え方だと思ってて、例えばこれを意識してなかったときに作った自分の作品なんかを読み返してみると、結構破綻してたりするのです。

いまでも小説を書くのに詰まって原因を考えたりすると、時間の進め方があやふやになってたりする。例えばいらない部分を情景法的に書いちゃってたり、情景法で書いた方がいいところを要約的に書いちゃってたり。

 

……と、ここまでがジュネット氏の提唱した物語内部における時間の進め方なのですが、恥ずかしながら実作者の端くれとして、ではどういうときにどのやり方で物語を書いていけばいいのか、ということについての私見を述べていこうかと思います。個人的には大きく二つあります。

 

(1)まず自分が一番やり勝ちだったこととして、情景法でしっかり見せるべき場面を要約または省略で簡単に済ませていた、ということがあります。実はツイッターに公開したことのある作品でもこれをやってしまっていて、それゆえあれは個人的に自信の持てる作品ではないのですが。

たとえ話からはいると、以前自分が書いた小説の主人公で、父親との確執のある青年というのがいました。作品の肝は父親との確執であって、その父親に対する憎い気持ちに変化が訪れるところで物語が終わる、という短編でした。

自分はこの小説で心境の変化が訪れる過程を丹念に描きたかった。まぁそこを丹念に書くのは当然と言えば当然なのですが、新人賞の応募規定の都合上、そこを丹念に書く分父親との確執は極めて要約的に書いてしまった。

結果としてどうなったかと言うと、改めて読み返してみると小説にまったくひっかかりがない。つまり読み進める興味がわかない。実はそれは当たり前で、父親との確執に対して読者がなんらかの想い(主人公に共感して父親を憎く想うでも、主人公の考え方に反発して父親に同情するでもいいから)を持たないと、その確執がどう解消されるかというところに興味がわき得ない。主人公に共感して父親を憎く想ったとすれば、だからこそ主人公が「父親ってこんな一面あったのかもしれない。悪いことをした」と反省したときに、一緒になって目から鱗の感覚が芽生えるのです。そして共感すればこそその物語を読み進めようと思う。

だから自分はあの小説において父親との確執を丹念に描くべきだったわけなのです。

そして情景法で書くべきところを要約法にしてしまう、ということについてもうひとつ。

情景法のシーン→要約法→情景法

って結構多いパターンなのですが、その要約法からの情景法に移るときにあまり意識していないと、前段までの書き方に引っ張られて若干要約的になってしまってたりする。そうすると書きたいことがある筈なのにそれがうまく表現できなくなってしまって、筆が乗らなくなってしまう。

筆が乗らないなー、と思ったときに、そのとき書いてる場面をより情景法的に丁寧な書き方にすると途端に筆が乗り始める、ということが結構ありました。そしてその前段まで要約法で書いていることが多い。

 

(2)逆パターンで、余分に丁寧に書いてしまうとこれはこれでかなり苦労することになるし、なにより読者の興味が一気に削がれる。要約法や省略法にするべきところを情景法にしてしまう、または省略法でいいところを要約してでも書こうとする、ということですね。

例えばこれも自分の話で恐縮なのですが(というか駄目な例を挙げようとすると自分の話になってしまう)、書きたいシーンとその次のシーンは決まってるのに、どうしてもその中間がうまく繋がらない。一応そこに情景描写と心理描写を若干挟もうかと思っていたのですが、なんだかどうしても先に進まない。そこで思い切ってそのシーンをすっぱりカットすると、意外と自然でいい繋がりになった、なんてこともありました。そこで書きたかった情景、心理描写は結局あってもなくても変わらないものだったなぁ、とあとで反省した時に気付いたり。

あと、これは本当に小説書き始めたばっかりの時に多かったのですが、「これ絶対要らないでしょ!」という描写を挟んじゃう。たとえば

A 学校から家に帰ってきて、母親と話をする

B 食事の時にその話の続きをする

という物語の流れがあったときに、この時間の使い方がわかってないとこのAとBの間に、「食事の支度をする」という全く不要なシーンを、しかも情景法で書いてしまったりする。そうすると書き手としても「なにこれなんかわからないけどこんな書き方でいいのかな? 俺なに書きたかったんだっけ?」という謎のジレンマに入り込んでしまうし、読者としても無駄なシーンを無駄に細かく見せつけられてるということになるのでダレてしまう。

でもこういうのって個人的には意外と早い時期にやらなくなるのですが、だからといって時間を意識してないと(1)については結構やってしまうし、省略法を情景法で、なんて極端なことはやらないまでも、要約法でいいのに情景法で書いてしまったりするのです。

 

 

……というわけで、物語内部における時間、というものを意識するかしないかで、小説の書き方は大きく変わるものだと自分は思っています。少なくとも自分はそうだった。

自分の小説が、「途中途中には満足いってるのに、なんか根本的に面白くないな」と思った時には、大体上記(1)で述べた、作品の根幹にかかわる部分を要約法や説明だけで終わらせてしまっていたりするのです。

ちなみにこの考え方をもって色んな小説を読んでいると、その人その人の癖がわかって結構面白かったりもします。そしてその癖によってどういう効果がもたらされるか、ということを考えるとまた実作に役立つ。

例えばこの理論を知った後で織田作之助氏の夫婦善哉なんか読むと、作品全体が要約的に書かれているのがわかる。要約的に書きつつ、しかし上方のエッセンスはしっかりと抽出してるから情緒をしっかり感じられる。あれが全体的に情景法が多かったら逆にダレるな、と思うし、ああいう要約法的な書き方を一貫してる作品ってそれ以前には(少なくとも自分の知っている限り。その限りはすごく狭いのですが)ないように見えます。そういう意味ですごく影響力があった人なのかな、と。

織田作之助氏の影響を受けた作家として町田康氏がいるのですが、町田氏も要約的な作品を結構書いてます。人間の屑、とか。

志賀直哉さんは休止法、情景法を使って丁寧に作品を書く人な気がする。見たままを素直に書く、ということに定評があるのは、きっとそういうところかな。

そして自分が一番最初に真面目に記事を書いた

 

monogatarikaitai.hatenablog.com

 こちらも、実は繋がってきて、要約法な書き方が多くなればその分主人公との心理的距離は離れる、すなわち客観的に主人公を描写した感じになる。

休止法、情景法を使って主人公と流れる時間を共有することが増えれば、無論主人公との心理的距離は近くなる。

と、個人的に考えております。

 

そんな感じです!

ごめんなさい、すごく雑な感じで締めに入ってしまいました。

実は自分はジュネット氏の「物語のディスクール」を読む前に、読んだ本があって、それを読んで以降小説の書き方が全く変わりました。すごくお勧めで、近所の図書館にもあったのでこちらもよかったら探して手に取ってみてください。橋本陽介氏の「物語論 基礎と応用」という本です。

ではそろそろ眠ります。こんな時間になってしまいました。

例によって反論、ご意見あればぜひぜひコメントいただければ嬉しいです。

それではおやすみなさい!

 

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

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物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

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夫婦善哉 決定版 (新潮文庫)

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きれぎれ (文春文庫)

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