物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

書評:大江健三郎氏「死者の奢り」

すごく久しぶりの更新になってしまいました伊藤卍ノ輔ですよろしくお願いいたします。

最近凄くもどかしい想いをしているのですが、それというのも丁寧に読むことを心掛けていて、でもたくさん読みたくもあって、その両立がどうしても難しい。でも今は丁寧に読んでいくことが先決かな、という気がするのです。

物語を深く理解しながら読めれば、それは次の読書にも必ず生きてくるはずで、その積み重ねで深く理解しながらも早く読む(=たくさん読む)ということもできるようになるのではないかなと思うからです。

とにかく大事なことはその中でだれないことかな、と。自分はサボり癖がなかなかにひどい質なので油断するとすぐサボってしまう。時間をかけて読むということはだらだら読むということでは無論なくて、しっかり考えながら読む、ということなのです。しかるに最近の自分を鑑みるとかなりだらだらしてたな、と思って恐い。冷や汗出てきた。すぐこうなんだから俺の馬鹿。そんなんだからソフトモヒカンで頼んだのに坊主にされるんだよ、自業自得だ。

ということで「だらけない」をスローガンに頑張りますよろしくお願いいたします。

 

では書評。初めに言わせていただきたいのですが、多分これを見てる方々にとっては「なに当たり前のことをドヤ顔で語ってんだこの豚野郎」ということもたくさんあるかとは思うのですが、飽くまでも個人的な備忘録としてのブログであることをご承知いただきまして、「きめぇ」と思いながら暖かく見守っていただけると幸いです。「それは違うだろ」ということがあればコメントにて叱責していただけると幸いです。以上言い訳でした。

それで大江健三郎氏の「死者の奢り」なのですが、敢えて最初に言ってしまうとこの小説の根本にある考え方はサルトル流の実存主義だと言われていて、それは実存は本質に先立つ、という考え方に基盤を置いているのです。実存と言うのは現実存在の略で、つまり現実に存在している個で、本質と言うのは存在理由と言うか、そもそもの存在する目的。

サルトルはその考え方についてペーパーナイフの例をあげていて、ペーパーナイフは最初に「紙を切る道具を作ろう!」という目的(=本質)があって、それから実存が作られる。でも人間は無宗教の立場に立つ限り、なんの規定もないまままず生まれる。それが「実存は本質に先立つ」ということで、だからこそ人間は自由なんだけどもそこには大きな責任が伴うということで「人間は自由の刑に処されている」なんていう言い方もしていたわけです。その実存の自由を克服するためにジャンジュネの泥棒日記に対する考察なんかを経た上で「アンガージュマン」、すなわち社会参加を積極的にしていきましょう、みたいな話になっていくのですが、それはこの際あんまり関係なさそう。大江健三郎という著者の態度には大きく影響している感じですが。

とにかくここでは人間に対して、その実存は本質に先立つのだ、というスタンスをおさえていただければいいのかなと思います。

それでは長くなりましたが小説の内容の話へ。

あらすじとしては、大学生である主人公の「僕」が解剖用の死体の移し替えのアルバイトに応募して、同じく応募してきた女子学生と共に新しい水槽に死体を移し替えるのですが、実はそれは無駄な仕事だった、というもの。

主人公は死者との対話の中で、「死は《物》なのだ」という観念を抱くに至ります。しかし死んだ瞬間はまだ完璧に《物》ではなく、「物と意識との曖昧な中間状態をゆっくり推移し」ながら、完全な《物》になる。

主人公はまだ死にたてほやほやの少女の「生命感にあふれ」た陰部を見て勃起します。それは少女が死にたてなのでまだ《物》になりきっていないということに他なりません。

一方死体処理室に運び込まれて久しい死者たちは完全に《物》として描写され、また移し替えの作業をつぶさに淡々と描くことで《物》としての死者を徹底的に印象付けられます。

またそれらの《物》である死者と対比されるようにして、死体処理室の管理人は「小柄でずんぐりしてい、骨格が逞しかった」と生命感のある書き方がされます。また「僕」が管理人を以って「五十歳あたりだろう、そして殆ど同じように老け込んだ妻と、工員の息子を持ってい、官立大学の医学部に勤めていることを誇りにしているのだろう。時には、さっぱりした服を着こんで場末の映画館にでかけるのだろう」と推測するように、この管理人は人を分類してその本質を規定するような俗っぽい人として描かれます。

一緒にアルバイトに従事する女子生徒は妊娠していて、堕胎するための費用を稼ぐ目的で志願したのです。

「妊娠するとね、厭らしい期待に日常が充満するのよ。おかげで、私の生活はぎっしり満ちていて重たいくらいね」というセリフに、妊娠をすることによって実存を規定された人物としての役割が表れています。

しかし死者と関わっていく中で、死者と腹の中の胎児について

「両方とも人間にはちがいないけど、意識と肉体との混合ではないでしょ? 人間ではあるけれど、肉と骨の結びつきにすぎない」といって、物としての死者を通じて胎児の実存を捉えながらついにはやっぱり産もうかと考えるに至ります。「赤ちゃんは死ぬにしても、一度生まれて、はっきりした皮膚を持ってからでなくちゃ収拾がつかないという気がするのよ」と。

そんな人たちと共にバイトをしていく中で主人公は、生きている人間と関わることへの疲れを自覚していきます。

たとえば陽の光が溢れる道で看護師さんが車いすに乗った少年を静かに押していて、主人公はその少年の方に手を乗せながら「この少年は僕を優しかった兄のようだと考え、長い間静かなもの想いにふけるだろう」と想像しながら少年の顔を覗き込むと、実は少年じゃなくておじさんで、主人公のその行為に怒りに満ちた顔をしていた、とか。これはサルトルの嘔吐でいうところの「完璧な瞬間」とそれがないことによる失望であって、すなわち自分が完璧だ、と思う必然的、本質的な時間などありはしないということだったり。

或いは希望をもっていないという主人公に対して管理人が、じゃあなんでこんな難関校に来てバイトまでして勉強してるんだ、というくだりとか。そうやって実存を規定されることで主人公はひどい疲れを感じていきます。

その主人公に対して管理人が「あんたには虚無的なところがある」と決めつけるのですが、主人公は実はニヒリズムになど陥っていなくて、女子生徒が体調が悪くなって看護師さんを呼びに行きながら「僕の躰の深みに、統制できない、ぐいぐい頭を持ち上げてくる曖昧な感情があるのだ」と気付いたりする。

それでこのアルバイト、実は趣旨が間違っていたことが判明するのです。古い水槽から新しい水槽へ移し替える、という話だったのが、実は古い死体は全て荼毘に付して、新しい水槽にはこれからくる新しい死体しか入れないものだったのです。

こうして主人公はバイト代がでるかもわからないまま、移し替えた死者たちをまた運搬用トラックに運び込む、という徒労に近い作業に従事することになります。その徒労を自覚しながら主人公は、「僕の喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押し戻してくるのだ」といって物語は終わります。

自分が思うに、水槽から水槽への移し替えの無駄な作業、そしてバイト代がでないであろうトラックへの運搬と言う作業は、人生の象徴なんではないでしょうか。この結末を書いた大江健三郎の念頭にはカミュの「シーシュポスの神話」があって、という気がする。シーシュポスは神から刑罰をくらっていて、それは岩を山頂まで押し上げて、押し上げ切ったところで反対から転がり落ちてしまうからまた最初からやり直し、という徒労なのですが、カミュはその短いエッセイの中でこの徒労に従事するシーシュポスが、その不条理な行いに自覚的であるからこそ幸福なのだ、と語ります。

無自覚に移し替えという徒労をやっていた主人公、そしてそれが徒労であり、またバイト代のでない徒労に、今度は自覚的に一晩中従事しなければならないとなったときに、「僕の喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押し戻してくるのだ」という。

こう見てくると、個人的にすごく胸のあつくなるラストだな、と思うのです。人生のメタファーとしての徒労に自覚的に向き合いながらも、ニヒリズムに陥らずに感情を動かし続ける主人公の姿にすごく励まされる気がするのです。

あと、この物語の書き方として、地の文にすごく色々な声が混ざっている。たとえば冒頭の死者の描写は主人公の語りじゃない。これは多分意識的に作者の声で書かれてる。それから「語り部としての僕」と、「物語の中の僕」の声も混合して書かれてて、そこに死者の声もカギカッコ無しではいってくる。あえてそういう多様な声を境界を曖昧にしながら書くことで、多重的な語りになってるという印象を受けます。

それと、異化。大江健三郎はこの重たくて生々しい文体に定評がある人ですが、本当に手触りとか匂いとか皮膚感覚が文章から立ち昇るように書かれてる。だから読み終えた後に重たくて生々しい手触りが残るんです。多分そういう書き方を強く意識して書かれてるんだろうな、とわかる。読みやすい文体が売りの作家さんには、ちょっとこの手触りは再現できないのではないかと思うのです。

あとこれは本筋と関係ない印象なのですが、登場人物の役割とか置かれている状況とかがすごく精密に作り込まれていて、それらの全てがテーマを補完する形で効いている。良くも悪くもものすごく綺麗な作りになっているのです。ムツゴロウさんが大江健三郎氏をみてかなわないといった理由がわかる。

「死者の奢り」は大江健三郎氏のデビュー作なのですが、作家さんの中にはやっぱり初期作品がこういう物凄く綺麗な作りになっている方が結構多い気がする。多分それだけみんな用意周到に考えて作ってるんだろうと思うのです。それでデビューして実作を重ねていくごとに、段々考えることから離れて無意識で(といったら本当は語弊があるのですが)作品を完成させられるようになり、そうやって物語の広がりを増していくのかな、と。

自分も作家を志す者として、青二才だからこそまずは「物凄く綺麗な作りの物語」を目指したい。隙の無い物語を書きたい。それでデビューできて、実作を重ねていく中で、大きな広がりを持つ物語が書けるようになればいい、とそんなことを思いました。

 

今日は書評(というか自分的解釈による解説?)でしたが、思ったより難しくて、しかもすごく疲れた。挫折しそうになった。でも「今日更新する」と宣言した以上は挫折も出来なくて頑張りました。その分内容も文章もひどくとっちらかってしまったのですが今回は許してくださいごめんなさい僕が豚でした。

ちょっと書評についても色々勉強しながら、このブログでもまた書評していきたいと思うのです。それがまた実作にも活きてくる、という確信もありますし。

みなさんもぜひ死者の奢り読んでみてください。高校生で読んだときは「なにこれわかったようなわかんないような感じだけどとりあえず実存主義文学読んでる俺がなによりも好き♡」という感想しか抱きませんでしたが、しっかり読むとかなり胸の熱くなる物語でした。

それでは今日はこの辺で!

 

 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

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シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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