物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

描写と物語の奥

どうもこんばんは朝見ていただいてる方はおはようございます伊藤卍ノ輔と申しますがこうやって自分で勝手につけた名前を名乗るのってすごく恥ずかしいですよね。

すごく久しぶりのブログですが、忙しくて書けなかったとかそういうわけではなくて、純粋にもっと物語への理解を深めてから更新したいという気持ちがすごく強くてですね、それで最近ちょっといままでよりは奥に入りこめた感じがあるので、それも含めて書きたいと思うのです。

 

最近Twitter上で「へたくそな作家ほど描写がクドい」というようなツイートが大荒れしてるのを目撃しました。まぁ、荒れるよね、と思う。言い方がちょっとアレなので。

でも、言い方がアレじゃなくても賛否両論を巻き起こす議題ではあると思うのです。

そのツイートをしてらっしゃった方は、「描写なんかクドくしなくったって、繁華街なら繁華街と一言で言っちゃえばあとは勝手に読者が脳内で補完する」ということをおっしゃっていました。

それに対しての反論は、「描写の多い小説で物語に身を浸しながら読むということもあるんだ」「行ったこともない場所は丹念に描写してくれたほうが豊かに想像できるんだ」というものでした。

ごもっとも! どっちもごもっとも! と思う。どっちの言い分も大いにあると思う。じゃあなんで正解のない描写問題で、こんなにも賛否両論が渦巻いてしまうのか、そこから考えていきたいと思うのです。

 

最初にツイートした方の言い分として、描写を丁寧にすると物語の流れが悪くなるんだ、というのが念頭にあると思うのです。だから風景を描くのは読者の脳内に任せて、テンポよく物語を進めていった方が面白い作品になるんだ、と。

これも的を射てると思う。と同時に、あいや待たれい、とも思う。

物語の流れが悪くなるって否定的な立場で語られることが多い論調だけど、果たして物語にブレーキをかけるのはデメリットしかないことなのでしょうか。

先ずは以前のブログでも書いたことなんですが、物語論では

①要約法

②情景法

③休止法

④省略法

という四つの時間の進め方があると言われています。④の省略法は、物語のある時間をばっさり省略することで、例えば「それから四年の月日が流れた」みたいなのが一番わかりやすい省略法なのですが、これは今回関係ないので割愛。

①の要約法はつまり、要約した書き方でこれは読んで字のごとく。②の情景法は物語の時間の流れと現実の時間の流れが近い感じ、というとわかりいいでしょうか。つまり要約せずに、所謂「描写的」書き方をするのがこれ。それで③の休止法は、完全に物語の時間を止めてあたりの風景なんかを細かく丁寧に描写するもの。

恐らく最初にツイートされたの発言を上に当て嵌めると「へたくそな作家ほど情景法と休止法が多い」ということになるのではないかと思うのです。

そこでちょっと次の文章を色々いじくりながら、情景法と休止法が物語においてどんな役割を果たすのか実験してみたいと思うのです。

「私は森の奥深くに入って行った。進んでいくと、足元にムカデがいるのに気が付いた。」

これは要約法的に書いたものです。森も、木も、ムカデも、同じくらいのウェイトで文章の中に存在していると思います。ではここでムカデをピックアップして、このムカデをいかに印象的に描くか、ということを考えてみます。

ロシアフォルマリズムの異化という概念はつまり、「物の手触りをしっかりと感じられるように書く」というのが主要な目的としてあります。自動化作用からの脱却、的なことです。これをムカデに適用してみます。

「私は森の奥深くに入って行った。進んでいくと、足元にムカデがいるのに気が付いた。直径十センチメートルほどの肥った体は油で濡れたように日差しを照り返し、産毛の様な無数の脚が波打つように動いている。」

文章の善し悪しを云々するのはやめてください! 僕だって頑張ってるんですよ!

とにかくムカデを異化してみましたが、これは休止法的な書き方になります。さっきよりムカデの存在感が増したのではないかと思うのです。

それで、ここまでは描写否定派の方にもご理解いただけるとは思うのです。「印象付けたいものをしっかり描写するのは当たり前、それ以外の描写はなるべく削った方がいい」という主張もでてくるかと思います。勝手に思っているだけですが。

でも上の文章は短いからいいのですが、例えばテンポよく進んでいる物語の中にこうして異化されたものがはいってきたらどうなるかな、と考えてみると、眼が滑ってあまり印象に残らず読み飛ばされちゃうんじゃないかなと思うのです。

そこで先ほど自分が言ったことを再度主張したいのでうすが、本当に物語にブレーキをかけることってデメリットばかりでしょうか。

というのは、異化したもの(というか異化云々に限らずしっかり見せたいもの)をしっかり見せたければ、その前で物語に一旦ブレーキをかけて、じっくり見せる、ということは非常に有効なのではないかな、と思うからそんなことを言うのです。敢えて物語のテンポを落とす、ということなのですが。

要するに、要約法はテンポが良すぎて目が滑るから、「要約法→情景法→見せたいもの」と書けば、見せたいものがよりしっかりと浮かび上がってくるのではないかな、と。そこで情景法を挟んでみます。

「私は森の奥に入って行った。木漏れ日が腐葉土の上にまだらに落ちて、ときどき風が吹いて梢が揺れると、その模様も一緒になって不安定に揺れる。その日に照らされたところに、紐の切れ端のようなものが落ちているのに気が付いた。見ると、ムカデだった。直径十センチメートルほどの肥った体は油で濡れたように日差しを照り返し、産毛の様な無数の脚が波打つように動いている。」

やめてください! 僕の文章の拙さはどうでもいいんですそんな話をしてるんじゃないこれでも一生懸命なんです!

言い訳をしないと気が済まない性分なのでごめんなさい。やっぱりこんなに短い文章だとわかりづらいかもしれませんが、それでも最初の文章よりも二番目、二番目の文章よりも三番目のほうがムカデが印象的に書かれてることは感じ取っていただけるのではないかな、と思うのです。

 

物語のテンポが悪くなる、というのをうまい具合に言い換えれば、物語の認知を遅らせることができる、ということだと思うのです。そしてその効果をしっかりと把握した上で文章を書いていくことはすごく有効なことだと思うのです。

それで、これって意識するしないにかかわらずみんなある程度やってるんじゃないかな? と思いますがいかがでしょう、実作する方々。

もっとわかりやすく言えば文章をタメる、みたいなイメージなのですが、たとえばテンポよく進んでいる物語で重要なシーンを書きたいときに、その前段でタメのシーンを挟んだりしないですか?

自分の書いた文章だけ読んでいただいても仕方ないのでちょっと実際の作品から認知を遅らせることで効果を上げている実例を。

 夏目漱石さんの夢十夜の第一夜。

冒頭で印象的な描写が描かれた後に、女が「私はもう死ぬわ」と言ってそこからテンポよく会話が数回続けられるそして

 

 「百年待っていて下さい」と思い切た声で云った。

 「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

 自分は只待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱した様に、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。

 

これ、たとえば

 

自分は自分は只待っていると答えた。すると、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。

 

にしてしまうとこんなに鮮やかな死に様にならない。もちろん夏目漱石さんなんだから描写がうますぎるというのもあるけど、この描写には認知を遅らせるという効果もあると思うのです。それまでの会話文がテンポがよかったので、尚更そういう風に書きたかったんじゃないかな、と。

 

あとはもう少し違う観点から。保坂和志さんの未明の闘争という小説があります。これについて芥川賞作家の磯崎憲一郎さんが「どこまで手荒に扱っても壊れないものか、小説という形式の頑強さを試しながら書いているような印象を私は持った。」と言ったとのことなのですが、それほど手荒で不思議な小説なのです。

あらすじを説明する意味がこれほどにない小説も珍しいですが、とにかくシーンとしては公園のベンチで主人公が不倫相手に膝枕をしてもらっているところで、公園の描写にはいる。そしてそこから延々と描写が続くのです。主人公の眼を通して見える公園の景色。

どれほど続くかと言うと、なんと21ページも続きます。その間ずっと物語にキツいブレーキがかかりっぱなしで、一向に進む気配が見えない。

その間読者は完全に主人公と視点を共にするのです。野点やら、それを撮る海外の方やら、犬の散歩やら子供たちやら……。

多分主人公が経験した時間を描写によって再現する、ということをしてるのではないかと思うのです。

あともうひとつとして、敢えて物語を止めてる。

この小説の変なところは、現在から回想シーンにはいって、その回想シーンにいつの間にか物語の軸が移っててもう現在には戻って来なかったり、回想から回想にいってその先で曖昧な記憶を語ったりあり得たかも知れない現在を語ったりするっていうのがごちゃごちゃに入り乱れてるところなのです。

そうやって小説内に流れる時間を極端なほど手荒に扱った小説なので、多分その一環として「時間を止める」ということをしたのじゃないかな、と。それって描写による認知の遅らせを「テンポが悪くなる」という側面でしか語らなかったら絶対にやってみようと思うことじゃないと考えるんです。

つまり描写がもつ効果を知ってるからこそ、こういうことも出来るんじゃないかな、と。

 

そんな感じで、とにかく描写というのは確かに物語のテンポを削ぐという側面があります。だから物語のテンポだけを重視したいなら極力入れないほうがいいかもしれません。一日で軽くサクッと読んで、「ああ、一気に読んじゃったよ!」となるような物語を書くには、確かに描写はあまり必要ない。

だけど物語敢えて遅らせることで、しっかりと見せたいものを見せることも出来て、それをやるには描写というのは最も効果的な手法のひとつだと思うのです。

 

それで、更に言うと、そうやって描写を駆使することってテクストの表面上の問題だけじゃないんですよね。つまり「なにがそこに書かれているか」以前の、「どういう風にそれが書かれているか」という問題であって、その「どういう風に」が実際に読者に起こす反応あdったり、与える印象だったりを深く突き詰めていくことが、物語の奥に入り込む鍵なのではないかと最近思うのです。

例えば先日芥川賞を受賞した今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」。

これ、テクストの表面で書かれてることを見ただけだと別に面白くないんです。世間で変人だと思われてた人が会社にはいって不倫して逃げるだけの話なのです。でも物語の骨子はそこにはない。

この小説の一番のポイントは、世間で変だと思われてた女を、主人公が徹底的に観察することで、変な人と普通な人が徐々に反転していって最終的に完全に入れ替わってしまうというところなのです。

それを書くにあたって、何時何分、むらさきのスカートの女は~した、みたいに徹底的に細を穿つ観察を展開するのですが、それによって今村さんが書きたいのはその時間にむらさきのスカートの女がなにをしたかではなくて、そこまで細かく観察する主人公のある種の狂気を書きたいのだと思うのです。それこそが、「どういう風にそれが書かれているか」によって描き出されるものだと思うのです。

 

あとはカミュの異邦人の冒頭。「きょう、ママンが死んだ。」は有名ですが、それに続く文章もすごく考えられてる。

 

きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。

「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これではなにもわからない。恐らく昨日だったのだろう。

 

本当なら、母親が死んで悲しむべきところで、主人公のムルソーはどうでもいいことをつらつら言う。テクスト表面で書かれてることは母親が死んだけど、昨日なのか今日なのかはっきりしないということだけですが、カミュが書きたかったのは母親が死んだのに時間を気にしている=母親の死への興味の薄いムルソーという人物、なのかなと思うのです。

たとえばそれをテクストの上だけで表すならば

 

きょう、ママンが死んだ。しかし私には興味がなかった。

 

となると思うのですが、これを敢えて上記のように書くことによってムルソーの人物像と言うのがより際立つようになっているのです。

 

多分描写不要・必要論争が激化してしまうのって、もちろん好みの問題もあれば、最初の方の言い方の問題もあるとは思うのですが、それ以上に「どういう風にそれが書かれているか」という観点から小説を解体するということがあまり一般的じゃないからじゃないかと思うのです。そういう観点から見れば、必要なところで描写をいれて、不必要なら削げばいい、となるでしょうし。

料理が下手なやつは醤油を使う、と言ってるのと同じことで、必要な料理には使えばいいし、必要じゃないならいれなければいい。じつはそれだけの話なんじゃないかな、と。そしてそれを「それは好みの問題だ! 俺は醤油が好きだ!」という方向から語るから、どうしても話が平行線になってしまう。

 

 

と、ここまで語ってきてなんですがこれは飽くまでも自分の勝手な持論ですし、しかももっと小説に奥深くがあるかもしれなくて、自分なんてまだまだそこが見えてないペーペーなのです。

もちろんこの記事によって誰かを非難したりする意図はありません。ただ炎上したツイートを元に語り始めたからどうしてもそういう雰囲気が付きまとってしまったかもしれない。うむむ困った。誰のことも傷つけずに生きてみたい。

 

というわけで今日はもう遅くなってしまいました!時間かかっちゃうねこういうの!映画見てから寝たかったのに絶対無理だ!

 

いまは公募用の応募作も書いてるしそれ以外にも読書会やら合評会やらあって小説で忙しいので更新までまた時間あいちゃうかもしれませんが、また自分の中で発見があれば更新は必ずします! 興味ないなんて言わないでください淋しいですから!

それではおやすみなさい。

続・人物像と、小説が作る世界像

どうもこんにちは伊藤卍ノ輔というものです宜しくお願いいたします。

最近、以前働いていた会社から戻ってこないかというお話をいただきました。自分がその会社をやめたときは社会保障がなくて、給料はまぁそこそこという感じだったのですが。今回誘われた条件ではしっかり社会保障も入ったし、給料もダントツにあげられるとのことでした。景気がよくなったというわけなのです。

でも自分がやめた理由って、社会保障とか給料とかよりもその仕事がどうしても好きになれなかったという側面の方が強くて、しかも現場仕事、具体的に言うと鳶職だったので体力の消耗が激しく、家に帰ったら眠るだけ、みたいな生活だったのです。そうすると小説も書けない。プロット練ったりもできない。

今回の話は借金のある身としては飛びつきたいほどの話なのですが、結局いまの職場にきた理由は給料多少低いけど職場で小説のプロット練れるようなところだったから、というのがあって、元の仕事に戻れば元の木阿弥なわけですごく悩ましいのです。

一年位前にも、これも自分がやっていた仕事である納棺師の大手からお誘いがあって、そこも好条件ですごく悩んだのですがお断りした経緯があるし、今回もまぁ悩むだけ悩んで行かないだろうなぁというのが個人的な結論なのです。

そこでやっぱり思うのは、今の仕事をいまの会社で続けていてもあまり給料があがるような見込みもなく、そうなってくると「小説家になれなかったら将来どうすんの」という不安のオマケ付きで職場に残るしかないということなのです。

売れなかったらとか、芽が出なかったらとか、そんなことを考えないわけでもない、ということなのですが、しかしその不安が本格的に自分を悩ませにこないのは、「大丈夫っしょw売れる売れるw」という自分の生来の楽観主義があるからなのです。

つまりなにが言いたいかというと、そうやって楽観主義な土台の上で、「でも売れなかったら将来は仄暗い感じだよなぁ」というこの不安がいい案配で自分をちょっぴり焦らせるので、その二つがいい感じに作用しあって自分は作家への道を力強く歩んでいけているということなのです。

もちろんいい小説、つまり自分自身で納得できるような小説が書きたくて日々鍛錬しているのですが、だからといって生活への不安が夢への原動力になっちゃいけない理由はない。

自分の信じた道を歩き続けていった先に、生活の不安をも一掃してくれる目標がある、というわけなのです。もちろんそれは果てしない道ではあるんですが。

 

今回は前置きが長くなってしまいましたが、そんなこんなでそろそろ本題にはいりたいと思います。

前回の記事で、人物像を具体的に異化された人物は普遍性を帯びて、そうして作られた人物は地域や時代を超える、的な持論を話しました。そうして、それは小説の作る世界のモデルにまで敷衍することができるんじゃなかろうか、と。

今回はその上で、かなり個人的な見解ながら、じゃあ具体的で普遍的な人物像が、どうやって世界像を作っていくのか、ということをかいてみようかと思うのです。言い換えると、人物像と世界像が、どういう具体的なつながりを持っているんだろうか、ということを話したいのです。

 

ここで、ある物語を通して作者が伝えたい主張があるとします。

よくやりがちで、なおかつ自分も今までそうしてしまっていたなぁ! 思う登場人物の作り方って、この主張に沿って登場人物を配置していくやり方。これって相当注意しないと他者不在の小説を作ってしまうことに繋がりやすいな、と思うのです。

それではちょいと具体的に。

例えばここに、「他人の作ったルールの上で生きていく必要なんかねぇんだ!」という想いの下に書かれた小説があるとします。この主張自体はありふれていながら結構一人一人にとって切実なものだったりするのでとてもいい感じだと思います。

で、主人公は他人の作ったルールの上で生きていながら、違和感を感じる青年。友人Aはちょいと鼻につく感じのエリートで、社会に決められたルールの上を疑問も持たず邁進しているタイプ。そんななか主人公はある日、他人の作ったルールなんて関係なく生きている友人Bに出会います。Bと付き合っていくうちに、徐々に自分の違和感の正体に気付き始める主人公。「いい子」でいることをやめて、一生懸命自分の道を探し始めます。最初は主人公を諫めていたAも、物語終盤になってポロッと「俺だって、こんな日常が正しいかはわかってないんだ」などと口走ったりして、「ああ、こいつも実はそうだったんだな」などという場面もありつつ。最後は実はずっとやりたかったバンドへの夢を追い始めるところで物語は終了し、読者の心に「やっぱり自分で選んだ道を歩くべきなんだ!」という作者の主張が残るという筋書き。

これは既存の話ではなくて、いま自分が書きながら考えたストーリーなのですが、まぁよくあるようなパターンだと思うのです。

いま書いたあらすじには、主人公、友人A、友人B、という三人の登場人物が出てきたのですが、それにも関わらず自分はこの物語に主人公以外には他者はいない、と思うのです。

なぜかというと、この登場人物たちは全員、「他人の作ったルールになんて乗っかるべきじゃない!」という絶対的な価値観の上で悩んだり悩まなかったりしてるから。

例えばこういう物語にでてくる友人Aの役割の人って、大体最初若干嫌な奴風に描かれる。なぜそうなるかと言うと、「他人のルール云々」という価値観の逆を行く人物だから。逆に友人Bは魅力的に描かれる。そうしてAが「実は俺も他人のルール云々の価値観は正しいと思ってるんですけどね」という告白をするシーンに至って、実はいい奴だった的な描かれ方になるのです。

つまり「他人の作ったルールになんて乗っかるべきじゃない!」という価値観を絶対的な善としつつ、それの逆をいけば悪、的な二元論的考え方が根底に横たわっている。そうなってくると実は多様な登場人物がでてくるようでいて、実はその登場人物たちはひとつの価値観を共有しているだけであり、結果的に他者なんて存在していないとも言えてしまうものだと思うのです。

そしてそうなってくると、その物語が構築する世界像って、その主張のもつ幅を出ない、すごく狭いものになってしまうと思うのです。

ではどうするかというと、「ひとつの主張があり、その主張に肉付けするように登場人物を配置する」というイメージではなくて、「ひとつの世界があり、その中で主人公にその主張を託しつつ、しかしその主張に纏わる多様な価値観の人物を描く」というイメージで書くのが大切なのかなと思うのです。

アルベール・カミュの「ペスト」を例に出すと、ある町に疫病のペストが蔓延し、町は閉鎖されてしまいます。その中で、医師として自分にできる範囲で誠実にペストと戦うことを決意したリウー、人々が互いに死刑宣告し合っているような世界の縮図をペストに認めて、それに静かに立ち向かっていくことに決めたタルー、神への信仰を失って罪のない人々の死を無駄にしないために飽くまでも信仰を抱き続けたパヌルー、ペストによって富み、さらに平和だった時に犯した罪が有耶無耶になって喜んでいるコタール他、様々な人たちが描かれつつ、しかもその人たちは絶対的な正義という価値基準の中で作られたわけではなく、飽くまでもペストという不条理の中で人々がどう生きていくのか、ということを多様な観点からとらえるような人物像で、だからこそカミュは誰のことも否定的に書こうとはしないのです。

上記の自分の作ったプロットで言えば、まず友人Aを嫌味な人物と書く必要はなくて、更に「実はAも違和感抱いてました」というシーンはいらないと思うのです。それじゃ主人公と同じ。

だからもしもAを出すなら、Aはしっかり勉強してエリートコースに乗って「やっぱ俺みたいにみんな生きるべきなんだな!」とかいわせてもいいと思う。そのAの価値観の分だけ物語が拡がると思うのです。

更に言うとBはもともと破天荒な性格だけど、主人公はどちらかというと素直な性格なんだろうから、結末として、例えばBにバンド誘われたけど主人公は「俺はお前みたいになれないよ」とかなんとか言ってその誘いを蹴って、それまでの日常に戻りつつも、しかしたしかに今まで知らなかった炎が心の中に宿った、的な終わり方でいいと思うのです。そうやって主人公とAとBをしっかり個々の人間と見做して個性を与えつつ、価値観の違いをしっかり書いていくことで、その分だけ物語が拡がると思うのです。

図にするとこんな感じだろうか。

f:id:itoumanjinosuke:20190623013509p:plain

 

違うんですよごめんなさい。失敗しちゃったんですよ。でもこの画像一つ書くのにかなりの時間がかかった上に手の筋が痛くなったんで書き直しする気力が湧かないんですよ。いやあの本当にごめんなさい気を付けますから今回は許してください。

いま考えりゃ余計なことしないでバックキー何回か押せばよかったんだな焦ってしまったよ。

 

……なにはともあれそんな感じなんです!えへへ!

 

というわけでした。最後はなんだか画像のせいで自分の中でアレになってしまいましたが。

やっぱり小説を読んでてすごく心に残る作品って、その小説に出てくる人物一人一人が独自の価値観を持っていて、それによって世界像が拡がっているな、と改めて考えて思うのです。

しかし何度も言いますがこれは飽くまでも完全なる個人的見解であって、異を唱える人が居て当然だと思うし、寧ろ絶対に正しい小説の書き方なんてないと思うのです。

でも自分は色々考えながら読んでいく中で自分なりの小説観が出来ていって、いまはそれを披歴してるに過ぎないのです。そこのところを何卒何卒ご了承いただきたいのです。

またいつものように「いやそれってこうでしょ!」などありましたら教えていただけると大変嬉しいのです。

よろしくお願いいたします。

それでは次の更新にまた!!

 

ペスト (新潮文庫)

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人物像と、小説が作る世界像

どうも伊藤卍ノ輔という名前でやっていますよろしくお願いいたします。

小説を書くにあたって、改めて自分はたくさんの先人たちの影響を受けているなぁと感じるのです。

先日地方文学賞に応募するために書いた小説の一部が好きな作家さんに似てしまって、でもそれって成長過程においては必ずしも悪いことじゃないなと思うのです。要するに自分の引き出しとしてしっかりとストックされたことの証拠でもあるので。

むしろ意識的に影響を受けていって受けていってその先で自分自身にしか書けない言葉がぽろっとでてきたときこそ、本当に自分が言いたいことが言えている、書きたいものが書けているってことなのではなかろうか、とふと思いました。そんな気持ちで読んだり書いたりしています。

 

といういつもの前置きらしきものをはさみまして本題に入ります。

最近名作と呼ばれるものを読んでいてふと思ったのですが、長く残っている物語ってやっぱり人物に魅力がある。共感したり、ときには反感を抱きながらもどうしてもその人物に魅せられないではいられない、ということがかなりある。

逆に読んでいて「これあんまり好きじゃないな」と思う物語ってどうしても人物を好きになれないのです。それは「この人物の考え方が嫌い」とかそういう話ではなくて、人間としての奥行が見いだせないのです。

ここでロシアの文芸理論家であるユーリーロトマンがその著書の中で述べていることを少しご紹介したいのですが、やっぱり文芸理論家だけあって言い回しがややこしく感じられがちだったりするので、ワケワカンネーと思ったら飛ばして下さっても大丈夫です。

 

「芸術的なモデルは、はじめから対象とはちがった構造として作られる。マンモスや野牛の壁画のように、人類の先祖がはじめて芸術的モデルを作ったときから、そこに描かれた絵は、現実のマンモスや野牛とはちがったものだ、と諒解されていたのである。動かない線描が、生きて動く、熱い血をそなえた獣をあらわす。それは単なるかたちのモデルをこえて、対象の内部にあるものを表現するモデルである。ひとつの人間の彫像を、科学的モデルは、人体のモデルとみなすが、芸術的モデルは、人間のモデル、さらには人間的体験のモデルとして作り出す。ロダンバルザック像は、人体のモデルではなく、バルザックという人間のモデル、さらには人間的体験のモデルである。」

 

自分はこの文章をパソコンに打って写しながらやっぱりすごく納得感があるなぁと感じるのです。

ここで言う人間の芸術的モデルというものを小説内の登場人物と限定して考えると、つまり登場人物はたんなる人体のモデルではなく、具体的なその人物としてのモデルであり、その人物の人間的体験のモデルであるとロトマンは言うのです。

そうしてもう少し引用すると、

 

「芸術作品としてのモデルは、それ自体ひとつの具体的な表現だが、同時にそれを越えた、普遍的なものの表現である。さきのバルザック像は、実在したバルザックという人物の像であるとともに、人間そのものの像でもある。具体性そのものが普遍性を帯びるのだ。」

 

つまり登場人物がたんなる人体のモデルを越えて具体的にその人物の像となったときに、その人物像は普遍的な人間のモデルともなりうる、ということなのです。

裏を返せば具体的な人物としてのモデルになりきれていないような登場人物には普遍性がなくて、そこには人としての重みだったり必然性が欠落してると自分は思うのです。そういう人物がでてくる小説がどうしても自分は好きになれないのだな、と。

 

自分はとなりのトトロが好きなのですが、お父さんが寝坊している間にさつきがお弁当と朝ごはんを作るというシーンがあります。そしてさつきは友達に呼ばれて、みんなより早くご飯を食べ終わって学校に行ってしまう。

ここでお父さんが喋るのは「すまん、寝坊した」と、「今日から私お弁当よ」と言われて「しまった、忘れてた」というシーンと、「もう友達が出来たのか」と、食事中にめいに「座って食べなさい」というところだけなのですが、結構よくありがちなシーンとして、こういう場面で「いつもごめんな」「ううん、私は大丈夫!(ガッツポーズ)」的なのがあると思うんです。

しかしこれをやってしまうことによって一気に人物に深みがなくなる。何故ならそのシーンって人物を説明する意図で設けられたものであって、つまりそのシーンが語るのは「いつも頑張ってる娘と、それに頼らざるを得ない男手一つのお父さん」という域をでない。現実にはそんな会話はほとんどしない。そういう説明的なシーンを挟んじゃうことによって、人物が一気にステレオタイプな型に納まっちゃって、具体性を失ってしまうと自分は思うのです。

たしかに人物のバックボーンは大事なのですが、そのバックボーンを説明するためだけのシーンを、現実的にはまずしないであろう会話によって作ってしまうと、受け手はたしかに理解することは出来るけどその分感じる余地がなくなってしまうと思うのです。

じゃあなにが大切かというと、バックボーンを丁寧に作った上で、その前提のある登場人物がこういう場面ではどういうことを言うのか、どういう行動を起こすのか、というのを想像力を駆使して考えることだと思うのです。その想像力によって具体性が高まって、それが人間の普遍性へとつながっていく。そこで説明的なシーンは妨げにしかならない。

地の文で説明するのはよいと思うのですが、説明的なシーンは「現実じゃそんなこと言わないだろ」となって感情移入の妨げになると考えます。

今更ですがこの普遍性と言うのは、受け手がたんなる共感を越えて、「あ、これ自分の事じゃん」と感じることができるもので、そういうのって住んでる地域とか時代を越えるものだと自分は思うんです。

ここでもうひとつ具体例をあげると、志賀直哉氏の「流行感冒」において、主人公(恐らく志賀氏の分身的な存在)が妻と女中にきつい言い方をしてしまったあとで、「なんかこれじゃ俺が悪いみたいじゃねーか。でもたしかに言い過ぎたかもしれない。ちょっとかわいそうなことしたな」と思うシーンがあるのですが(完全に自分の主観による意訳)、その気持ちってすごくわかるし、いつの時代でもあの流行感冒の心の微妙な移り変わりって共感を越えて「俺の事じゃん」的な感情を誘いうるものだと思うのです。それは感情と言うものをステレオタイプな形で捉えずに、感じたまま具体的に書くことによって、具体性を帯びているんだ、という言い方ができると思うのです。そしてそれが普遍的な人間像というものなんじゃないかな、と。

たとえばこの流行感冒において主人公をステレオタイプな頑固じいさんと設定して、妻と女中を叱ったあとでも「ふん、俺は悪くねーからな」的な書き方がされていたら自分はここまでこの物語に惹かれなかったと思うのです。具体性の欠落した、物語進行のためだけの人物像になってしまう。

もちろんそういうことを逆手にとって「敢えて」ステレオタイプな人物像を作り上げる、というやり方もあってしかるべきだし、自分が言いたいのはそれを考慮にいれているかいないかなんだ、ということをわかっていただきたいのですが。

 

ここで人物像というものからもう少し敷衍して世界像というものを考えてみます。

小説は物語という形をとる限り、ひとつの世界のモデルを形つくっているものだと思うのです。だけどその世界像も具体性を失ってしまえば、それは普遍的な世界ではなくなってしまうんじゃなかろうかと考えます。

具体的な世界像とはつまり、ロシアフォルマリズムでいうところの「異化」された世界像。すなわち理解ではなく感じることのできる世界。読んでいると手触りとか匂いとか五感が実際に刺激されて、その世界に入り込んだ時の皮膚感覚さえ感じられるようなそんな世界像。

たとえば大江健三郎氏の小説なんかは、読んでいると本当にその小説の世界を満たしている粘着質で重たい空気感がこっちにまで伝わってくるような感じがするし、トルストイ氏(例によって違和感ありありな敬称ですがこれ以外思いつかないので許してください)の戦争と平和なんかも、実際に当時のロシアの社交界の息遣いが五感を使って感じられるような気持ちにさせられるのです。

そうやって全身に感じる世界像っていうのは人物像のときに述べたように普遍的であって、その普遍的な世界像の中で普遍的な人物像が動き、その結果として物語が生まれた、という関係性が出来上がって初めて、その物語が説得力を持つのではなかろうかと思うのです。現実世界では、運命論を信じない限り、先に決められた事柄があってそれによって人間が動くのではなくて、人間が動くことによってある現象が起きたりして、それをあとから考えたときにひとつの物語と呼びうるのであって、そういう風に人物が先行する形で物語を作らないと、現実に起こりうる世界のモデルとはならない、すなわち普遍的な世界のモデルにはなり得ない、と自分は考えるのです。先にプロットがあってそこから登場人物を作るのがいけないとかではなくて、書き方として、ということですが、もちろん。

 

もっというと、そうやって具体的な手触りを伴って作られた物語を読むっていうことは実際の経験にも劣らないと思うのです。

自分の記憶の中に、暗い路地で一層明るく光る八百屋さんの光景があるのですが、これは実際の経験ではなく、梶井基次郎氏の檸檬を読んだ時にイメージとして自分の記憶に蓄積されたものなのです。

暗い浜辺を見ればなによりもまず芥川龍之介氏の蜃気楼の後半の光景を思い出すし、天体観測が好きなので星の綺麗なところにちょくちょく出かけるのですが、そうすると必ず宮沢賢治氏の銀河鉄道の夜のシーンを思い出す。浜辺の西洋風の家はサガン氏の悲しみよこんにちはを思い出すし、納棺師をやってたころ縊死の故人様に出会う度に茨木のり子氏の詩を思い出していました。

記憶って実際に見たわけじゃないのにはっきりと自分の中に蓄えられていて、それは実際に見た記憶にも遜色のないほど、むしろそれより鮮やかな印象で残っていたりもする。

物語の世界に普遍性を持たせることで、同時に読書体験が経験になる。それこそ小説というものの途方もない可能性なんだということを自分は信じているのです。

読書体験が直接自分の人生に影響を及ぼしているな、と感じるとき、それはその物語が持つ前向きなメッセージを実際に駆使して困難を乗り切ったときに留まらないと思うのです。小説がその役割しか果たせないなら自己啓発本だけ読めば十分だと思うのです。

そうじゃなくて、小説を読んで、それを経験として自分の中に蓄積することによって、もっと根本的な価値観に少なからず影響を受けていて、だからわかりづらいけど、たしかに、そして根本的に自分の少なくない成分は読書体験によって形作られてきたと断言できるんです。

 

ちょっと前にツイッターで「小説がアニメや映画に勝っている部分ってなに?」という議論を頻繁に見かけた気がするのですが、それは手間がかからないとか自由度が高いとかそういう表層的なことじゃなく、小説が経験であるということだと思うのです。

そういう意味では直接的に視覚聴覚に訴えかけてくるアニメや漫画って、実際に自分の経験として蓄積しづらいと思うのです。自分はアニメや映画について、そっちのフィールドで実作を志している人たちより考える機会は無論少ないので確たることは言いづらいですが、少なくとも作品の世界を「経験させる」という面においては小説に分があるのではないかと思っているのです。アニメや映画のワンシーンを思い返す時、少なくとも自分はその映像として思い出す。でも小説の場面っていうのは経験として思い出す。だからこそ自分は小説に強く惹かれて小説を書こうと思ったのだな、と最近つくづく考えているのです。

具体的に作っていくことによって、普遍的に開かれた世界を読者に経験させる。小説のそういう側面を考えたときに、自分は小説の持つすごすぎる可能性にただただ驚いてしまうのです。

小説ってやっぱりすごい! 俺も誰かの経験となって、確かに蓄積されるようなそんな物語が書きたい!

 

ということで、最後らへんは主観パラダイスになってしまいましたが、最近自分がずっと考えていることをやっとブログにできました。

それで、ここまで熱く語っておいてナンですが、これは小説とか物語っていうものに対するひとつの考え方でしかないわけです。

もちろん「それは違うぞ馬鹿だなこいつは」という意見があっていいと思うし、それぞれがそれぞれの小説観をもっていればこそ、その可能性が限りなく拡がるものだと思うのです。だから反論は無論あるだろうし、そういうのがあればやっぱり「自分はこう思う」ということを教えていただければすごく嬉しいのです。

 

というわけでもうさすがに寝ます。いくら明日お休みだからって夜更かししすぎましたこれじゃ生活リズム狂って仕事中ネムネムでお小説の事考えられなくなっちゃう! 困る!

 

ではではおやすみなさい。そうして起きてから読んで下さった方おはようございます。日中読んで下さった方こんにちは。晩になってから読んで下さった方こんばんは。よろしければコメントもお待ちしています!

 

 

文学理論と構造主義―テキストへの記号論的アプローチ

文学理論と構造主義―テキストへの記号論的アプローチ

 

 

 

新しい文学のために (岩波新書)

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となりのトトロ [DVD]

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書評:大江健三郎氏「死者の奢り」

すごく久しぶりの更新になってしまいました伊藤卍ノ輔ですよろしくお願いいたします。

最近凄くもどかしい想いをしているのですが、それというのも丁寧に読むことを心掛けていて、でもたくさん読みたくもあって、その両立がどうしても難しい。でも今は丁寧に読んでいくことが先決かな、という気がするのです。

物語を深く理解しながら読めれば、それは次の読書にも必ず生きてくるはずで、その積み重ねで深く理解しながらも早く読む(=たくさん読む)ということもできるようになるのではないかなと思うからです。

とにかく大事なことはその中でだれないことかな、と。自分はサボり癖がなかなかにひどい質なので油断するとすぐサボってしまう。時間をかけて読むということはだらだら読むということでは無論なくて、しっかり考えながら読む、ということなのです。しかるに最近の自分を鑑みるとかなりだらだらしてたな、と思って恐い。冷や汗出てきた。すぐこうなんだから俺の馬鹿。そんなんだからソフトモヒカンで頼んだのに坊主にされるんだよ、自業自得だ。

ということで「だらけない」をスローガンに頑張りますよろしくお願いいたします。

 

では書評。初めに言わせていただきたいのですが、多分これを見てる方々にとっては「なに当たり前のことをドヤ顔で語ってんだこの豚野郎」ということもたくさんあるかとは思うのですが、飽くまでも個人的な備忘録としてのブログであることをご承知いただきまして、「きめぇ」と思いながら暖かく見守っていただけると幸いです。「それは違うだろ」ということがあればコメントにて叱責していただけると幸いです。以上言い訳でした。

それで大江健三郎氏の「死者の奢り」なのですが、敢えて最初に言ってしまうとこの小説の根本にある考え方はサルトル流の実存主義だと言われていて、それは実存は本質に先立つ、という考え方に基盤を置いているのです。実存と言うのは現実存在の略で、つまり現実に存在している個で、本質と言うのは存在理由と言うか、そもそもの存在する目的。

サルトルはその考え方についてペーパーナイフの例をあげていて、ペーパーナイフは最初に「紙を切る道具を作ろう!」という目的(=本質)があって、それから実存が作られる。でも人間は無宗教の立場に立つ限り、なんの規定もないまままず生まれる。それが「実存は本質に先立つ」ということで、だからこそ人間は自由なんだけどもそこには大きな責任が伴うということで「人間は自由の刑に処されている」なんていう言い方もしていたわけです。その実存の自由を克服するためにジャンジュネの泥棒日記に対する考察なんかを経た上で「アンガージュマン」、すなわち社会参加を積極的にしていきましょう、みたいな話になっていくのですが、それはこの際あんまり関係なさそう。大江健三郎という著者の態度には大きく影響している感じですが。

とにかくここでは人間に対して、その実存は本質に先立つのだ、というスタンスをおさえていただければいいのかなと思います。

それでは長くなりましたが小説の内容の話へ。

あらすじとしては、大学生である主人公の「僕」が解剖用の死体の移し替えのアルバイトに応募して、同じく応募してきた女子学生と共に新しい水槽に死体を移し替えるのですが、実はそれは無駄な仕事だった、というもの。

主人公は死者との対話の中で、「死は《物》なのだ」という観念を抱くに至ります。しかし死んだ瞬間はまだ完璧に《物》ではなく、「物と意識との曖昧な中間状態をゆっくり推移し」ながら、完全な《物》になる。

主人公はまだ死にたてほやほやの少女の「生命感にあふれ」た陰部を見て勃起します。それは少女が死にたてなのでまだ《物》になりきっていないということに他なりません。

一方死体処理室に運び込まれて久しい死者たちは完全に《物》として描写され、また移し替えの作業をつぶさに淡々と描くことで《物》としての死者を徹底的に印象付けられます。

またそれらの《物》である死者と対比されるようにして、死体処理室の管理人は「小柄でずんぐりしてい、骨格が逞しかった」と生命感のある書き方がされます。また「僕」が管理人を以って「五十歳あたりだろう、そして殆ど同じように老け込んだ妻と、工員の息子を持ってい、官立大学の医学部に勤めていることを誇りにしているのだろう。時には、さっぱりした服を着こんで場末の映画館にでかけるのだろう」と推測するように、この管理人は人を分類してその本質を規定するような俗っぽい人として描かれます。

一緒にアルバイトに従事する女子生徒は妊娠していて、堕胎するための費用を稼ぐ目的で志願したのです。

「妊娠するとね、厭らしい期待に日常が充満するのよ。おかげで、私の生活はぎっしり満ちていて重たいくらいね」というセリフに、妊娠をすることによって実存を規定された人物としての役割が表れています。

しかし死者と関わっていく中で、死者と腹の中の胎児について

「両方とも人間にはちがいないけど、意識と肉体との混合ではないでしょ? 人間ではあるけれど、肉と骨の結びつきにすぎない」といって、物としての死者を通じて胎児の実存を捉えながらついにはやっぱり産もうかと考えるに至ります。「赤ちゃんは死ぬにしても、一度生まれて、はっきりした皮膚を持ってからでなくちゃ収拾がつかないという気がするのよ」と。

そんな人たちと共にバイトをしていく中で主人公は、生きている人間と関わることへの疲れを自覚していきます。

たとえば陽の光が溢れる道で看護師さんが車いすに乗った少年を静かに押していて、主人公はその少年の方に手を乗せながら「この少年は僕を優しかった兄のようだと考え、長い間静かなもの想いにふけるだろう」と想像しながら少年の顔を覗き込むと、実は少年じゃなくておじさんで、主人公のその行為に怒りに満ちた顔をしていた、とか。これはサルトルの嘔吐でいうところの「完璧な瞬間」とそれがないことによる失望であって、すなわち自分が完璧だ、と思う必然的、本質的な時間などありはしないということだったり。

或いは希望をもっていないという主人公に対して管理人が、じゃあなんでこんな難関校に来てバイトまでして勉強してるんだ、というくだりとか。そうやって実存を規定されることで主人公はひどい疲れを感じていきます。

その主人公に対して管理人が「あんたには虚無的なところがある」と決めつけるのですが、主人公は実はニヒリズムになど陥っていなくて、女子生徒が体調が悪くなって看護師さんを呼びに行きながら「僕の躰の深みに、統制できない、ぐいぐい頭を持ち上げてくる曖昧な感情があるのだ」と気付いたりする。

それでこのアルバイト、実は趣旨が間違っていたことが判明するのです。古い水槽から新しい水槽へ移し替える、という話だったのが、実は古い死体は全て荼毘に付して、新しい水槽にはこれからくる新しい死体しか入れないものだったのです。

こうして主人公はバイト代がでるかもわからないまま、移し替えた死者たちをまた運搬用トラックに運び込む、という徒労に近い作業に従事することになります。その徒労を自覚しながら主人公は、「僕の喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押し戻してくるのだ」といって物語は終わります。

自分が思うに、水槽から水槽への移し替えの無駄な作業、そしてバイト代がでないであろうトラックへの運搬と言う作業は、人生の象徴なんではないでしょうか。この結末を書いた大江健三郎の念頭にはカミュの「シーシュポスの神話」があって、という気がする。シーシュポスは神から刑罰をくらっていて、それは岩を山頂まで押し上げて、押し上げ切ったところで反対から転がり落ちてしまうからまた最初からやり直し、という徒労なのですが、カミュはその短いエッセイの中でこの徒労に従事するシーシュポスが、その不条理な行いに自覚的であるからこそ幸福なのだ、と語ります。

無自覚に移し替えという徒労をやっていた主人公、そしてそれが徒労であり、またバイト代のでない徒労に、今度は自覚的に一晩中従事しなければならないとなったときに、「僕の喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押し戻してくるのだ」という。

こう見てくると、個人的にすごく胸のあつくなるラストだな、と思うのです。人生のメタファーとしての徒労に自覚的に向き合いながらも、ニヒリズムに陥らずに感情を動かし続ける主人公の姿にすごく励まされる気がするのです。

あと、この物語の書き方として、地の文にすごく色々な声が混ざっている。たとえば冒頭の死者の描写は主人公の語りじゃない。これは多分意識的に作者の声で書かれてる。それから「語り部としての僕」と、「物語の中の僕」の声も混合して書かれてて、そこに死者の声もカギカッコ無しではいってくる。あえてそういう多様な声を境界を曖昧にしながら書くことで、多重的な語りになってるという印象を受けます。

それと、異化。大江健三郎はこの重たくて生々しい文体に定評がある人ですが、本当に手触りとか匂いとか皮膚感覚が文章から立ち昇るように書かれてる。だから読み終えた後に重たくて生々しい手触りが残るんです。多分そういう書き方を強く意識して書かれてるんだろうな、とわかる。読みやすい文体が売りの作家さんには、ちょっとこの手触りは再現できないのではないかと思うのです。

あとこれは本筋と関係ない印象なのですが、登場人物の役割とか置かれている状況とかがすごく精密に作り込まれていて、それらの全てがテーマを補完する形で効いている。良くも悪くもものすごく綺麗な作りになっているのです。ムツゴロウさんが大江健三郎氏をみてかなわないといった理由がわかる。

「死者の奢り」は大江健三郎氏のデビュー作なのですが、作家さんの中にはやっぱり初期作品がこういう物凄く綺麗な作りになっている方が結構多い気がする。多分それだけみんな用意周到に考えて作ってるんだろうと思うのです。それでデビューして実作を重ねていくごとに、段々考えることから離れて無意識で(といったら本当は語弊があるのですが)作品を完成させられるようになり、そうやって物語の広がりを増していくのかな、と。

自分も作家を志す者として、青二才だからこそまずは「物凄く綺麗な作りの物語」を目指したい。隙の無い物語を書きたい。それでデビューできて、実作を重ねていく中で、大きな広がりを持つ物語が書けるようになればいい、とそんなことを思いました。

 

今日は書評(というか自分的解釈による解説?)でしたが、思ったより難しくて、しかもすごく疲れた。挫折しそうになった。でも「今日更新する」と宣言した以上は挫折も出来なくて頑張りました。その分内容も文章もひどくとっちらかってしまったのですが今回は許してくださいごめんなさい僕が豚でした。

ちょっと書評についても色々勉強しながら、このブログでもまた書評していきたいと思うのです。それがまた実作にも活きてくる、という確信もありますし。

みなさんもぜひ死者の奢り読んでみてください。高校生で読んだときは「なにこれわかったようなわかんないような感じだけどとりあえず実存主義文学読んでる俺がなによりも好き♡」という感想しか抱きませんでしたが、しっかり読むとかなり胸の熱くなる物語でした。

それでは今日はこの辺で!

 

 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

 

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

 

理論を学ぶ、ということ

こんにちはご無沙汰しておりました伊藤卍ノ輔という若輩者ですお久しぶりによろしくお願いいたします。

突然ですが自分はすごく飽きっぽい人間なのです。

ギターを小学生の時から初めて未だに上手くならないのは、弾いていた期間よりも飽きてうっちゃっていた期間のほうが多いからだし、物理学者を志したこともあったけど結局大学すら入学辞退してしまったのはやっぱり「飽きた」という一言に帰結するのです(と言いつつ家にお金がなかったという側面もあるのだけど)。

それがどうして小説に関してはこんなに継続的に一生懸命になれてるんだろう、と折に触れて考えるのですが、それは自分の中で成功する筋道をしっかり立てられているからなんじゃないかな、と思うのです。自分の書きたいものに自信はあって、それが物語として不完全であるならばやっぱり技術面の不足が原因だから、そこを確実に強化していければいつかはきっと作家としてやっていけるのだから、まずは徹底的に書く技術を磨いていこう、という自分なりの歩んで生き方。

そしてどうしていままでそれができていなくて、小説に関してはそういうビジョンが立てられるのか、といったときに、やっぱり好きだから、という答えが真っ先に浮かんでくるというか、寧ろそれしか浮かんでこない。

ギターはなんとなくの憧れで始めてみて、それでものめり込めるほど夢中にはなれなかったし、勉強に関しては優秀な兄に触発されて始めただけだからそもそも主体的な動機ではなかった気がするのです。

小さい頃から隙あらば妄想して一人でニヘニヘする、という怪しい癖があり、小説を読むのが好きで、その二つが結びついて「自分から書く」ということをやってみて、何回も挫折っぽいことを繰り返しながらそれでもなんとか食らいついこれたのは、やっぱり根本的に小説を書くのも読むのも超好きだ! という前提があるからなんじゃないかなぁと考えたのです。

個人的な話でした。

 

今回は少し抽象的な話をしてみようと思います。というのも、自分の周りには絵を描く人も音楽をやる人も勿論小説も書く人も少なからずいて、その人たちの中には一定の割合で

「理論なんか学んだら感性が萎れる」

「俺は爆発する俺のエネルギーだけで創造するんだ!」

「他人の指図を受けた時点でそれはもう芸術家じゃない」

という人たちがいるからなのです。

それはそれで否定するつもりはないのです。そういう考え方も勿論あっていい。でもそういう想いの中で生まれるものって大体既存のものの劣化版なことがすごく多い気がしてしまう。優れた芸術家たちは歴史の中に数えきれないほどいて、そういう人たちが思いもよらなかったことを考えつくって奇跡よりもっと可能性の低いなにかだと思う。どれだけの才能あふれる人たちが革新を追い求めて疾走してきたのかを考えると。

それに以前、聖飢魔Ⅱのギターのエース清水氏が著したギター理論の本で、「理論を学んで個性が掻き消されてしまうようなら、もともとそんな貧弱な個性で成功することはできない」というようなことが述べられており、これは本当にその通りだなぁと考えたものです。

そこで以下、小説における理論(ナラトロジー、文学理論)を学んでいくことの意義について、自分の考えを改めて述べてみようかなぁと思うのです。

 

これって小説において理論を学んだ上で実作を考え直すというのは、他の分野よりも切実な問題だと思うのです。

たとえば絵心の無い自分が絵を描いてみたとして、それをプロと比べて「ああ、俺ってプロでも通用するな」と思うことはまずない。ギターやその他楽器でも、何も知らないままなんとなく演奏してみて「俺って天賦の才能がある!」と思い上がってしまうこともない。

だけど小説においてはそこがすごく危なくて、物語論も文学理論も知らないまま、どう読者に届けるかも考えないまま書いた、物語として破綻してるような文章の羅列でも、ひとたび完成させてしまえば「これすごくない!? 俺才能ありすぎるんじゃない!?」と思えてしまうのです。現に自分がそうだったし、ネット上に挙げられている「~賞で一次すら突破できなかったけど、それは審査員に見る目がなかったからです。ぜひ読んでください」的な物語を試しに読んでみても、最早物語にすらなってなかったりする。

でも当然のことながら意味の通る日本語の繋がりにはなっていて、それがおそらく小説の初心者にとってもっとも恐ろしいことなんではないかと思うのです。

ぱっと見、ぱっと聞きで判断できるものではない。そうして文章としての意味は通っていて、物語構造としての破綻はあれど、なんとなく辻褄があってしまう。さらにそこに「俺の想いの全てを乗せてやった」的な自負が加わって、すごいものが書けた、世間でも評価されてしかるべきだ、という自信に繋がってしまう。

そんな状況の中で少しでも理論と言うものを学び始めると、自分の作ったものの綻びがざくざく見つかり始める。それは「理論と照らし合わせて」というよりは、「理論を学ぶことによって客観的な読み方が出来るようになった眼差しを以って」というニュアンスであって、決して単純に理論が絶対的で普遍なものとして考えるということではなくて。そうして自分の作品を見つめなおしたときに改めて「ではどうやって物語を作っていけばいいのか」という問いに、能動的な姿勢で立ち返れると思うのです。そうなったときに、先人たちが作り上げてきた理論と言うのが実に頼もしい道しるべになってくれる。

理論を学ぶ、ということは実践的な力を身に着ける、ということでもあると思うのですが、それ以前にまず自分の立ち位置を知り、自分の作品に妄信的になっている状態から目を覚ますという意味において非常に重要だと常々考えているのです。

そうして、理論を学びつつ意識的に読む、自覚的に書く、ということを繰り返していけるなら、それは自分が辿り着きたい高みに確実に一歩一歩昇っていく行為だと自分は考えるのです。

 

正直に言うと、理論という言葉に胡散臭さを感じて「俺はすごいものをきちんとつくれている! 俺は俺流でやる!」という方には、そのままでいてほしい気持ちもある。プロの小説家を志す者として、やっぱり意識的に実作を書いている人は一人でも少ない方が好ましいw

だけど反面、翻訳物の文学理論の本なんかを読んでると海外では結構そういう実践的なアプローチの仕方はかなりの人がやっているようで、日本人の自分としては「置いてかれない様にみんなで頑張ろうよ!」という気持ちもある。ちょっとここら辺は複雑。

日本は良くも悪くも未だに精神論の強い国な気がするので、積極的に学び、取り入れて、更にその上を行く、というやり方が意外と軽視されがちなんじゃないかなぁと考えてしまうのです。

 

長々書きました。

ここまで言っといてなんですが、自分だって物語論や文学理論が絶対的なものであるとは思っていません。しかしながら、それの欠陥に気付いてそこを超えていく、というのはやはり学ぶことでしかできないことだと思うのです。

 

最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。

反論やご意見ございましたら何卒コメントいただければと思います。それによってお互いの見識を広げられればと考えているのです。何卒!

 

 

 

文学理論講義: 新しいスタンダード

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新しい文学のために (岩波新書)

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物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

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物語のカタルシスにおける基本的な構造

どうもこんにちは伊藤卍ノ輔です。

今回のテーマは多分、知ってる人にとっては「当たり前じゃんそんなこと」となるものだと思うのですが、自分がこれを上手く把握できていなかったためにあまり満足のいくものが書けなかった経験から、ちょっと書いてみようかと思います。

 

カタルシスとは、たしかギリシアかどこかの言葉で「浄化」という意味だったかと。

物語において「カタルシス」という場合には、感情を貯めていって貯めていって、スパークさせる! みたいなイメージなわけです。

もちろんそれが物語の作り方の全てではないんですが、カタルシスを使った物語作りは間違いなく王道で、少なくともうまくうまく作れればある程度読むに堪えるものになるのではないかと思うのです。

 

というわけで、ここでひとつの例を出します。自分が以前書いた小説のひとつなのですが、これはカタルシスの構造をもつ小説にしようかと思ったのです。

主人公は一人の青年で、一人暮らしを始めて数年経つ。青年は母親に死なれて、父親との確執を抱えたまま家を飛び出したのでした。そんな中である人物と出会い、父親に対する誤解に気付いていく中で、若いの方向へと心が傾いていく……というお話です。

これ実は、ちょっと難しいな、と今なら思うのです。こういうお話を書くならいっそのことカタルシスとか考えないで、主人公の一人称視点から、少し一文を長めにして、意識をなぞるような繊細な筆致で静かに時間を進める感覚で書いた方がよかった。

何故かというと、父親との確執から離れてしまった以上、感情がそれ以上蓄積していかない。感情(主に怒りとか不安とかの負の感情)が蓄積して蓄積して、臨界点に達したところで爆発する、というのがカタルシスの醍醐味なわけですが、上記の物語の構造だと、既に蓄積している感情に対して向き合って、それを解消していく、という書き方しかできない。だから個人的にはちょっと後悔の残るものになってしまいました。

いまの例でなにがいいたかったかと言うと、要するにカタルシス構造を使って小説を書くなら、なにか蓄積していくものがあって、それに対して反発する気持ちがあって、その蓄積が限界に達した時に、その反発心が表に現れる。……というのが基本構造としてあるわけです。

 

自分の好きな小説に、村田沙耶香氏の「しろいろの街の、その骨の体温の」があって、これがカタルシスの構造をうまく使っているので少しご紹介させていただきたい。ネタバレありなので気を付けて下さい。

前半パートと後半パートに別れており、前半パートは小学生時代の話で、おしゃれでみんなから人気の若葉、ちょっとださくて無神経な信子、そしてその中でぬるぬるやってく主人公の結佳の仲良し(?)三人組の微妙な関係がメインで描かれます。伊吹という男子の話も少し別枠で描かれるのですが、カタルシスというものを語るうえではそこまで重要じゃないので割愛。その三人はクラス替えでバラバラになってしまい、結局遊ばなくなってしまう、というところで前半終了。

後半はその三人が中学にあがり、また同じクラスになるところからスタートします。ですが、その関係性は微妙に変わってしまっている。中学校に入るとスクールカーストが明確になっていて、若葉は一番上のカースト、信子は一番下、そして主人公の結佳は下から二番目に落ち着いてしまっている。

ここで物語を面白くしてるのは、三人それぞれがスクールカーストの中でもがいてるところなのです。

若葉は一番上ではあるけど、一番上の一番下という位置づけで、ボス的存在の周りで一生懸命盛り上げ役に徹している。信子は一番下のカーストで、いじりと言う名の晒しもの的存在になっている。結佳はそういうクラスの中で出来るだけ息を潜めて、スクールカーストの暗黙の了解に触れないようにしている。

若葉が必死にボスのご機嫌取りをしたり、信子が同じく一番下のカーストの馬堀さんが笑い物にされているのを見て見ぬ振りしたり、そういうのが面白い、というか先を気にならせる仕掛けになっている。

スクールカーストという暗黙ではあるけど明確なルールを作って、そのルールに触れないように過ごさなければならない、というある種のハラハラ感で読ませているわけです。そうして、そのタブーに対するフラストレーションと、その流れに嫌々乗せられてなあなあに生きていく自分自身への嫌悪が、負の感情として蓄積されていく。だからここでのスクールカーストのルールは強くて縛りが多いほどその蓄積は大きくなっていくので、実際そう書かれている。

そうして、ある事件をきっかけにスクールカーストの外側に飛び出た結佳は、今度は自らそのカーストのタブーに触れていくのです。ここでカタルシス、要するにそれまでの負の感情に対する「浄化」が起きるわけです。

それまではそのタブーに触れないようにすることで物語を読ませる構造にしていた。その物語の力を丸ごと利用して、カタルシスを起こす。だからすごくハラハラする。それまで主人公に感情移入していた読者は「え、え、いいの!? そんなことして!」と思いながら読むのがやめられなくなってしまう。

話を自分が書いた小説に戻すと、あの話にはそういう強いインタレストになるものがなくて、ただ固まっていた感情が溶けていくだけだから、いま考えると失敗したなぁと思う訳です。だからこそ静かにその感情が溶けてゆく様を丁寧に描ければ、それはそれでよかったはずだんだけれども。これはすごく個人的な話。

 

という感じで、まぁ最初にも言った通り今回の記事は、わかってる人からしてみれば「なんだそんな当たり前の事」という話だとは思うのですが、自分にとってはそれでもなかなかに大きな発見だったので書いてみました。

実は自分の例にあげた小説を書いたあとに、「なんか違うんだよなぁ」と納得いかない気持ちが燻っていて、そのあとに「しろいろの街の、その骨の体温の」を読んで気が付いた、という経緯があるもので、だからこそ更に衝撃的な発見として記憶に残ったのかもしれません。ぼんやりとしていた物語のカタルシスの構造がはっきりと見えた、というかなんというか。

いずれにせよこれは物語の数ある形の内のひとつにしか過ぎないので、この形に固執しすぎるのは良くないとは思うのですが、書きたいテーマがカタルシスの構造と親和性が高いのならば、やっぱり上記を理解した上で書いていきたいと思うのです、ええ。

 

というわけでまたこんな時間ですいつも遅くなりすぎる!おやすみなさいみなさん!

 

 

 

物語内部における時間の進め方

こんにちは伊藤卍ノ輔ですがツイッターではプレアデス人間と言う名前でやっております。ややこしくてごめんなさい。

タイトル関係ない話になってしまうのですが、自分はつくづくブログを書くのが下手だと思ってしまうのです。そしてその原因は普段あまりブログを読まないせいかな、と。まぁ調べ物をしてるときに検索するとブログがでてきてそれを読むくらいなのです。

だから書き方がわからない。他のブログがどんな構成でどこまで内容を掘り下げてるのかわからない。

そして同じことは小説にも言えると思うのです。

幅広く読書をすればその分だけ他の小説の構造、描写、書かれている内容などの見識が拡がる。その知識は作品を書く上での土台としては欠かせない。だからたくさん幅広く、それでいて深く読む、すなわち実作するということと同じくらい「読む」ということは大事なのではないかと。

下手くそなブログを書いていく中でそんなことを思いました。

 

本題に入ります!

物語内部における時間の進め方。

これを意識するようになる以前と以後で全く自分の作品の書き方が変わりました。レベルが一気に三つくらい上がった気がした。それまで漠然としてた「物語を作る」という行為が具体性を帯びたというか、そのくらい自分にとっては大事な考え方でした。

以下、フランスの文学理論家のジェラール・ジュネット氏が著した「物語のディスクール」を大いに参考にさせていただきながら、芥川龍之介氏の「蜃気楼」を僭越ながら少し紐解いてみようかと思います。

 

まず物語を作っていく上で、四つの時間の進め方がある、とジュネット氏は説きます。この考え方が自分にとってはかなり重要でした。それが、

 

①休止法

②情景法

③要約法

④省略法

 

です。

①の休止法っていうのは、情景描写を考えてもらえるとすごくわかりやすくて、要するに写真でも見ているかのように、物語に流れる時間を止めて書いていくやり方。

蜃気楼でいうと、

「海は広い砂浜の向うに深い藍色に晴れ渡っていた。が、絵の島は家々や樹々も何か憂鬱に曇っていた。」

の部分。

 

②の情景法っていうのは、物語を時間の流れに即するように描写していく方法。要するに、時間は動いているけど現実と同じような速度で、といった感じです。

「そこへどこかから鴉が一羽、ニ三町隔たった砂浜の上を、藍色にゆらめいたものの上をかすめ、更に又向うへ舞い下った。と同時に鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った。」

 

③の要約法はその名の通り、要約して物語を語るやり方で、一つの段落で何年もの歳月が流れることもあれば、一時間半時間をちょいと要約的に語ったりもします。

「僕等は東家の横を曲がり、次手(ついで)にO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹(とねりこ)のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。」

 

④の省略法もこれもその名の通り。何年も省略することもあれば、数時間だけ省略することもあります。

「 O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉には答えなかった。が、僕の心もちはO君にははっきり通じたらしかった。

 そのうちに僕らは松の間を通り、引地川の岸を歩いて行った。」

 

以上の①~④の「物語の時間の進め方」っていうのは、個人的には結構物語の根幹をなす考え方だと思ってて、例えばこれを意識してなかったときに作った自分の作品なんかを読み返してみると、結構破綻してたりするのです。

いまでも小説を書くのに詰まって原因を考えたりすると、時間の進め方があやふやになってたりする。例えばいらない部分を情景法的に書いちゃってたり、情景法で書いた方がいいところを要約的に書いちゃってたり。

 

……と、ここまでがジュネット氏の提唱した物語内部における時間の進め方なのですが、恥ずかしながら実作者の端くれとして、ではどういうときにどのやり方で物語を書いていけばいいのか、ということについての私見を述べていこうかと思います。個人的には大きく二つあります。

 

(1)まず自分が一番やり勝ちだったこととして、情景法でしっかり見せるべき場面を要約または省略で簡単に済ませていた、ということがあります。実はツイッターに公開したことのある作品でもこれをやってしまっていて、それゆえあれは個人的に自信の持てる作品ではないのですが。

たとえ話からはいると、以前自分が書いた小説の主人公で、父親との確執のある青年というのがいました。作品の肝は父親との確執であって、その父親に対する憎い気持ちに変化が訪れるところで物語が終わる、という短編でした。

自分はこの小説で心境の変化が訪れる過程を丹念に描きたかった。まぁそこを丹念に書くのは当然と言えば当然なのですが、新人賞の応募規定の都合上、そこを丹念に書く分父親との確執は極めて要約的に書いてしまった。

結果としてどうなったかと言うと、改めて読み返してみると小説にまったくひっかかりがない。つまり読み進める興味がわかない。実はそれは当たり前で、父親との確執に対して読者がなんらかの想い(主人公に共感して父親を憎く想うでも、主人公の考え方に反発して父親に同情するでもいいから)を持たないと、その確執がどう解消されるかというところに興味がわき得ない。主人公に共感して父親を憎く想ったとすれば、だからこそ主人公が「父親ってこんな一面あったのかもしれない。悪いことをした」と反省したときに、一緒になって目から鱗の感覚が芽生えるのです。そして共感すればこそその物語を読み進めようと思う。

だから自分はあの小説において父親との確執を丹念に描くべきだったわけなのです。

そして情景法で書くべきところを要約法にしてしまう、ということについてもうひとつ。

情景法のシーン→要約法→情景法

って結構多いパターンなのですが、その要約法からの情景法に移るときにあまり意識していないと、前段までの書き方に引っ張られて若干要約的になってしまってたりする。そうすると書きたいことがある筈なのにそれがうまく表現できなくなってしまって、筆が乗らなくなってしまう。

筆が乗らないなー、と思ったときに、そのとき書いてる場面をより情景法的に丁寧な書き方にすると途端に筆が乗り始める、ということが結構ありました。そしてその前段まで要約法で書いていることが多い。

 

(2)逆パターンで、余分に丁寧に書いてしまうとこれはこれでかなり苦労することになるし、なにより読者の興味が一気に削がれる。要約法や省略法にするべきところを情景法にしてしまう、または省略法でいいところを要約してでも書こうとする、ということですね。

例えばこれも自分の話で恐縮なのですが(というか駄目な例を挙げようとすると自分の話になってしまう)、書きたいシーンとその次のシーンは決まってるのに、どうしてもその中間がうまく繋がらない。一応そこに情景描写と心理描写を若干挟もうかと思っていたのですが、なんだかどうしても先に進まない。そこで思い切ってそのシーンをすっぱりカットすると、意外と自然でいい繋がりになった、なんてこともありました。そこで書きたかった情景、心理描写は結局あってもなくても変わらないものだったなぁ、とあとで反省した時に気付いたり。

あと、これは本当に小説書き始めたばっかりの時に多かったのですが、「これ絶対要らないでしょ!」という描写を挟んじゃう。たとえば

A 学校から家に帰ってきて、母親と話をする

B 食事の時にその話の続きをする

という物語の流れがあったときに、この時間の使い方がわかってないとこのAとBの間に、「食事の支度をする」という全く不要なシーンを、しかも情景法で書いてしまったりする。そうすると書き手としても「なにこれなんかわからないけどこんな書き方でいいのかな? 俺なに書きたかったんだっけ?」という謎のジレンマに入り込んでしまうし、読者としても無駄なシーンを無駄に細かく見せつけられてるということになるのでダレてしまう。

でもこういうのって個人的には意外と早い時期にやらなくなるのですが、だからといって時間を意識してないと(1)については結構やってしまうし、省略法を情景法で、なんて極端なことはやらないまでも、要約法でいいのに情景法で書いてしまったりするのです。

 

 

……というわけで、物語内部における時間、というものを意識するかしないかで、小説の書き方は大きく変わるものだと自分は思っています。少なくとも自分はそうだった。

自分の小説が、「途中途中には満足いってるのに、なんか根本的に面白くないな」と思った時には、大体上記(1)で述べた、作品の根幹にかかわる部分を要約法や説明だけで終わらせてしまっていたりするのです。

ちなみにこの考え方をもって色んな小説を読んでいると、その人その人の癖がわかって結構面白かったりもします。そしてその癖によってどういう効果がもたらされるか、ということを考えるとまた実作に役立つ。

例えばこの理論を知った後で織田作之助氏の夫婦善哉なんか読むと、作品全体が要約的に書かれているのがわかる。要約的に書きつつ、しかし上方のエッセンスはしっかりと抽出してるから情緒をしっかり感じられる。あれが全体的に情景法が多かったら逆にダレるな、と思うし、ああいう要約法的な書き方を一貫してる作品ってそれ以前には(少なくとも自分の知っている限り。その限りはすごく狭いのですが)ないように見えます。そういう意味ですごく影響力があった人なのかな、と。

織田作之助氏の影響を受けた作家として町田康氏がいるのですが、町田氏も要約的な作品を結構書いてます。人間の屑、とか。

志賀直哉さんは休止法、情景法を使って丁寧に作品を書く人な気がする。見たままを素直に書く、ということに定評があるのは、きっとそういうところかな。

そして自分が一番最初に真面目に記事を書いた

 

monogatarikaitai.hatenablog.com

 こちらも、実は繋がってきて、要約法な書き方が多くなればその分主人公との心理的距離は離れる、すなわち客観的に主人公を描写した感じになる。

休止法、情景法を使って主人公と流れる時間を共有することが増えれば、無論主人公との心理的距離は近くなる。

と、個人的に考えております。

 

そんな感じです!

ごめんなさい、すごく雑な感じで締めに入ってしまいました。

実は自分はジュネット氏の「物語のディスクール」を読む前に、読んだ本があって、それを読んで以降小説の書き方が全く変わりました。すごくお勧めで、近所の図書館にもあったのでこちらもよかったら探して手に取ってみてください。橋本陽介氏の「物語論 基礎と応用」という本です。

ではそろそろ眠ります。こんな時間になってしまいました。

例によって反論、ご意見あればぜひぜひコメントいただければ嬉しいです。

それではおやすみなさい!

 

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

 

 

 

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

 

 

 

夫婦善哉 決定版 (新潮文庫)

夫婦善哉 決定版 (新潮文庫)

 

 

 

きれぎれ (文春文庫)

きれぎれ (文春文庫)