物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

理論を学ぶ、ということ

こんにちはご無沙汰しておりました伊藤卍ノ輔という若輩者ですお久しぶりによろしくお願いいたします。

突然ですが自分はすごく飽きっぽい人間なのです。

ギターを小学生の時から初めて未だに上手くならないのは、弾いていた期間よりも飽きてうっちゃっていた期間のほうが多いからだし、物理学者を志したこともあったけど結局大学すら入学辞退してしまったのはやっぱり「飽きた」という一言に帰結するのです(と言いつつ家にお金がなかったという側面もあるのだけど)。

それがどうして小説に関してはこんなに継続的に一生懸命になれてるんだろう、と折に触れて考えるのですが、それは自分の中で成功する筋道をしっかり立てられているからなんじゃないかな、と思うのです。自分の書きたいものに自信はあって、それが物語として不完全であるならばやっぱり技術面の不足が原因だから、そこを確実に強化していければいつかはきっと作家としてやっていけるのだから、まずは徹底的に書く技術を磨いていこう、という自分なりの歩んで生き方。

そしてどうしていままでそれができていなくて、小説に関してはそういうビジョンが立てられるのか、といったときに、やっぱり好きだから、という答えが真っ先に浮かんでくるというか、寧ろそれしか浮かんでこない。

ギターはなんとなくの憧れで始めてみて、それでものめり込めるほど夢中にはなれなかったし、勉強に関しては優秀な兄に触発されて始めただけだからそもそも主体的な動機ではなかった気がするのです。

小さい頃から隙あらば妄想して一人でニヘニヘする、という怪しい癖があり、小説を読むのが好きで、その二つが結びついて「自分から書く」ということをやってみて、何回も挫折っぽいことを繰り返しながらそれでもなんとか食らいついこれたのは、やっぱり根本的に小説を書くのも読むのも超好きだ! という前提があるからなんじゃないかなぁと考えたのです。

個人的な話でした。

 

今回は少し抽象的な話をしてみようと思います。というのも、自分の周りには絵を描く人も音楽をやる人も勿論小説も書く人も少なからずいて、その人たちの中には一定の割合で

「理論なんか学んだら感性が萎れる」

「俺は爆発する俺のエネルギーだけで創造するんだ!」

「他人の指図を受けた時点でそれはもう芸術家じゃない」

という人たちがいるからなのです。

それはそれで否定するつもりはないのです。そういう考え方も勿論あっていい。でもそういう想いの中で生まれるものって大体既存のものの劣化版なことがすごく多い気がしてしまう。優れた芸術家たちは歴史の中に数えきれないほどいて、そういう人たちが思いもよらなかったことを考えつくって奇跡よりもっと可能性の低いなにかだと思う。どれだけの才能あふれる人たちが革新を追い求めて疾走してきたのかを考えると。

それに以前、聖飢魔Ⅱのギターのエース清水氏が著したギター理論の本で、「理論を学んで個性が掻き消されてしまうようなら、もともとそんな貧弱な個性で成功することはできない」というようなことが述べられており、これは本当にその通りだなぁと考えたものです。

そこで以下、小説における理論(ナラトロジー、文学理論)を学んでいくことの意義について、自分の考えを改めて述べてみようかなぁと思うのです。

 

これって小説において理論を学んだ上で実作を考え直すというのは、他の分野よりも切実な問題だと思うのです。

たとえば絵心の無い自分が絵を描いてみたとして、それをプロと比べて「ああ、俺ってプロでも通用するな」と思うことはまずない。ギターやその他楽器でも、何も知らないままなんとなく演奏してみて「俺って天賦の才能がある!」と思い上がってしまうこともない。

だけど小説においてはそこがすごく危なくて、物語論も文学理論も知らないまま、どう読者に届けるかも考えないまま書いた、物語として破綻してるような文章の羅列でも、ひとたび完成させてしまえば「これすごくない!? 俺才能ありすぎるんじゃない!?」と思えてしまうのです。現に自分がそうだったし、ネット上に挙げられている「~賞で一次すら突破できなかったけど、それは審査員に見る目がなかったからです。ぜひ読んでください」的な物語を試しに読んでみても、最早物語にすらなってなかったりする。

でも当然のことながら意味の通る日本語の繋がりにはなっていて、それがおそらく小説の初心者にとってもっとも恐ろしいことなんではないかと思うのです。

ぱっと見、ぱっと聞きで判断できるものではない。そうして文章としての意味は通っていて、物語構造としての破綻はあれど、なんとなく辻褄があってしまう。さらにそこに「俺の想いの全てを乗せてやった」的な自負が加わって、すごいものが書けた、世間でも評価されてしかるべきだ、という自信に繋がってしまう。

そんな状況の中で少しでも理論と言うものを学び始めると、自分の作ったものの綻びがざくざく見つかり始める。それは「理論と照らし合わせて」というよりは、「理論を学ぶことによって客観的な読み方が出来るようになった眼差しを以って」というニュアンスであって、決して単純に理論が絶対的で普遍なものとして考えるということではなくて。そうして自分の作品を見つめなおしたときに改めて「ではどうやって物語を作っていけばいいのか」という問いに、能動的な姿勢で立ち返れると思うのです。そうなったときに、先人たちが作り上げてきた理論と言うのが実に頼もしい道しるべになってくれる。

理論を学ぶ、ということは実践的な力を身に着ける、ということでもあると思うのですが、それ以前にまず自分の立ち位置を知り、自分の作品に妄信的になっている状態から目を覚ますという意味において非常に重要だと常々考えているのです。

そうして、理論を学びつつ意識的に読む、自覚的に書く、ということを繰り返していけるなら、それは自分が辿り着きたい高みに確実に一歩一歩昇っていく行為だと自分は考えるのです。

 

正直に言うと、理論という言葉に胡散臭さを感じて「俺はすごいものをきちんとつくれている! 俺は俺流でやる!」という方には、そのままでいてほしい気持ちもある。プロの小説家を志す者として、やっぱり意識的に実作を書いている人は一人でも少ない方が好ましいw

だけど反面、翻訳物の文学理論の本なんかを読んでると海外では結構そういう実践的なアプローチの仕方はかなりの人がやっているようで、日本人の自分としては「置いてかれない様にみんなで頑張ろうよ!」という気持ちもある。ちょっとここら辺は複雑。

日本は良くも悪くも未だに精神論の強い国な気がするので、積極的に学び、取り入れて、更にその上を行く、というやり方が意外と軽視されがちなんじゃないかなぁと考えてしまうのです。

 

長々書きました。

ここまで言っといてなんですが、自分だって物語論や文学理論が絶対的なものであるとは思っていません。しかしながら、それの欠陥に気付いてそこを超えていく、というのはやはり学ぶことでしかできないことだと思うのです。

 

最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。

反論やご意見ございましたら何卒コメントいただければと思います。それによってお互いの見識を広げられればと考えているのです。何卒!

 

 

 

文学理論講義: 新しいスタンダード

文学理論講義: 新しいスタンダード

 

 

 

新しい文学のために (岩波新書)

新しい文学のために (岩波新書)

 

 

 

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)