物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

描写で書くもの書かないもの

どうもこんにちは、伊藤卍ノ輔です。

また今日も恥を忍んで小説について書いて、書きながらまた考えてみようかと思います。

今日はタイトル通り、小説における描写で書くべきもの、書かざるべきものを考えてみようかな、と。というのも、よく文章における鉄則のような感じで

「美しいものを、美しいという言葉を使わずに表現するのが文筆家だ!」

というような言葉を耳にするからです。小説を自分で書いてみるまではその意味が分からなかったのですが、曲がりなりにも自分で書いてみて少し分かったような気持ちに一瞬なったのです。なったのですが、そこから更に書いて考えてってやっていくうちに分からなくなった。そして分からないなりに色々考えたことを、ちょっと書いてみようかなと。

まず最初に自分が思ったのは、「たしかに直接言葉で表しちゃ意味ないな」ということでした。

例えば美しい、というので言えば、「美しい光景」と書かれて、果たして「ああ美しいなぁ」と思うかということです。これはまず思わない。じゃあどうするか。都会の夜景でも陽射しできらきらする田園風景でもなんでもいいから、自分で美しいと思ったものを文章の上で再現できれば一番いい。それができれば、読者はそのイメージを頭の中に描いて、自分の体験したものと重ね合わせたりしながら、「ああ美しいなぁ」となってくれるのではないかと思うのです。

つまるところ、美しいと感じさせたければ(美しいと”理解”させたいだけなら直接書いてしまえばいいと思うけど)、美しいと説明するのではなくて、その美しいと思ったものを文章の上で再現して共有すればいい。

 

とここまで考えて、んなるへそ! と俺は手を叩いたのです。そりゃそうだ。「あの夜景美しかったよー」と言われても「ふぅん」だけど、その夜景を相手の想像上に描ければその体験を共有できるんだから。

 

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そしたら実作を見てみよう、と俺は思ったのです。自分が描写によってなんらかの感情を抱いた部分には、直接的な表現は無い筈で、更にそこには自分が文章の中に飛び込んで行けるようなそんな工夫が凝らされているはずだ!

自分は志賀直哉さんが好きなので、その中でも描写が有名な「城の崎にて」をまず読んでみました。あの小説を読むと、淋しいけどなんか心地のいい、そんな気分になれるのです。だとしたら淋しいとかそういう表現は使わずに、描写によってのみ淋しさを伝えてくれているはずなのです。

 

「或朝の事、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれさがっていた。(中略)それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。」

 

はぁ?(半ギレ)

 なんで淋しかったなんていう直接的な表現を使って、しかもそれで風情が削がれてるならともかくこんなに淋しくて静かな情感が伝わってくるの?

なんなの、これ。

じゃあ例えばこの文章を次のようにしてみたらどうだろう。

 

 

「或朝の事、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれさがっていた。(中略)それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは如何にも静かだった。」

 

……たしかにこれでも情感は伝わってくる。伝わってくるんだけど、改変前の文章ほどじゃない。だとしたらやっぱりこの「淋しかった」はこの文章に置いて必要だということになる。しかしそれはおかしい。だって直接的表現を使わずに、相手のイメージを膨らませてあげることによって感覚を共有するのが一番なんだから。

じゃあ他の文章も見てみよう、とここで俺は思ったわけです。

これも俺が大好きな小説、中勘助さんの「銀の匙」にはこんな文章がありました。

 

「 うさぎの戯れるように左右の手がまりの上にぴょんぴょんとおどってまるくあいたくちびるのおくからぴやぴやした声がまろびでる。その美しい声にうたわれた無邪気なうたは今もなおこの耳になつかしい余韻をのこしている。」

 

この文章を読むとこれまたなんだか淋しくなるのですが、その淋しさはノスタルジックな感情の前提にあって、そして見てみればこの文章にもまた「なつかしい」という言葉が使われているのです。

これは注意してみると色んな小説でこういうことがあって、たとえば「せつない」とか「不気味」とか、その言葉そのままに書かれてるのにたしかにそういう感情にさせられる。

 

それは何故だろう、と考えそれらの文章をじっくり読んだのですが、それぞれの共通点が自分が見つけた限りでは二つほどあったのです。

 

①描写のあとに、補完するようにその言葉がいれられる。

上記の「城の崎にて」も「銀の匙」もそうなのですが、まずは丁寧な描写だったり、「銀の匙」で言えば主人公と女の子が遊んでいるシーンがしっかり書かれていたりして、そのあとでそのシーンの最後に「淋しかった」やら「なつかしい」という言葉が入ってくる。つまりそれ単体で置いているわけではない。まぁ当たり前の話ではあるのですが、これが前提となってもうひとつ。

 

②余計な装飾がない。

例えば「泣きそうになるほど淋しかった」だの「心が温まるようななつかしい」という言葉使いはしてない。「城の崎にて」はもちろんだけど、「銀の匙」も「なつかしい」という言葉が余計に飾り立てられてない。比喩とかもない。とにかく①で言ったように描写があったあとで、シンプルにその言葉だけ単体で置かれてる。

 

①と②を統合すると、要するに「描写の後、シンプルな言葉でその情景に余韻をだす」ということなのではなかろうか。

「淋しい」も「なつかしい」も「せつない」も「不気味」も、全部結構懐が広い言葉だと思うのです。言い換えれば、余韻のあるというか、想像の余地のある言葉。例えば形容詞の中でも「美しい」とか「醜い」とかって、物事を規定する方向に働く言葉だけど、淋しいとかってそうじゃなくて、その言葉自体が広がりを持っている気がするのです。

そういう言葉を、描写のあとにポコンとシンプルに置ければ、その言葉の広がりが読者の想像力を広げてくれるんじゃないかな、と。

しかしその言葉の広がり、という面に関してももちろん言い切ることはできなくて、美しいっていう言葉を広がりをもって使えるならそれはいいと思うのです。

 

結論として、描写のあとに、広がりをもった言葉を飾らずに入れることが出来れば、それは効果的に読者の想像力を掻き立ててくれるのではなかろうか!

 

「 静かな夜の底に広大な手賀沼が黒々と広がっていた。遊歩道沿いの街灯の光がその水面に落ちて、帯状に砕けてちらちら揺れている。しばらくその光景を眺めていた。せつなくなった。それでまた私は歩き始めた。」

 

どうでしょう、こんなんで。頑張って書いてみました恥ずかしい。

 

というわけで、今日はなにを書けばよくて、なにを書いちゃいけないのか? という記事にしようと思ったのですが、思いの外ひとつの書き方をなんとなく導き出しただけな感じで予想以上に小さいスケールの話になってしまった。定型文的な技法の話になってしまって、恐らく読んで下さった方にとっては肩透かし的な感じになってしまったのではないかな、と思うと申し訳ない。自分もまだ俯瞰で色々なことを把握しながら記事を書く、ということができていないのです。

ペーペーなもので、申し訳ない。

しかし描写については、例えば素直に書くだとか、なんだとか、他にも色々思うことがあって、いまそれを実践して試行錯誤しているところなので、もしもその中で掴めたことがあるならばまたそれも記事にしてみようかなと思ってるのです。

「なんだこいつ超レベル低いじゃん笑けるwww」というノリで付き合って下さればとても幸いなのですがすごく恥ずかしくて悔しいですがしかし幸いなのですというのが本音なのです。

もしもこの記事に関して、そこはそうじゃないんだよ、考えが足りなさすぎるよ、ということがあればコメント下さればとっても嬉しいです。

ここまで読んで下さった方もしいらっしゃれば、本当にありがとうございました。

 

はぁ、なんだか落ち込む☆彡

それではごきげんよう

 

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

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銀の匙 (岩波文庫)

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三人称視点と心理的距離のお話

こんにちは。伊藤卍ノ輔です。ツイッターは別名義でやってます。そこらへんのすり合わせは追々するかな、しないかな?

 

というわけで、本日は書評とかしてみようかと思ったのですが、書評したい本に対する読みこみが足りてないなぁと自分で考えて、とりあえず以前自分なりに学んだことを書いてみます。

ああ、書くの恐いなぁ自分みたいなど素人がこんなブログを……恥ずかしい……と言い訳のようなことを言わせていただきまして準備ばっちりです。

 

というわけでタイトルの通り、三人称視点における心理的距離。

まず物語の主人公と読者の間には、絶対的な距離があると思うのです、当然。例えどんなに感情移入してても、その主人公なわけではない。それだからこそ、その距離を前提しながら、作者(語り手)がどの位置に身を置くかっていうのがすごく大事になってくるわけで。

というわけで、「彼女に口ひげが生えていて、指摘したらひっぱたかれた」という状況設定の下、二つのケースを考えてみました。

 

①語り手が主人公に近い位置にいる場合

彼は彼女に、髭が生えてるよ、と言った。彼女に叩かれた。体が後ろに吹っ飛んで、後頭部に鋭い痛みが走り視界が真っ暗になった。

とやると、視点が「彼」にオーバーラップして、代弁者的な立場になる。

 

②語り手が読者に近い位置にいる場合

彼は彼女に、髭が生えてるよ、と言った。彼は彼女に叩かれた。彼の体が後ろに吹き飛んで後頭部をコンクリートに打ち付け、彼は失神した。

彼は彼はうるせーよ!というのはご容赦ください少し大げさにやってみましたごめんなさい。

ともかくこうやると、飽くまでも第三者視点で見たことのみの記述になって、「彼」と意識を共有する事は無い。「彼」とそうして距離を取った分、第三者たる読者に視線が寄り添う。

 

すなわち

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となるわけです。なんだこの素人丸出しなブログ、泣きたくなってきた。

とにかくこうなる。そしてこれどっちかというと②のほうが一般的なのかな?そっちのほうが多い印象。ちなみに自分は思いっきり主人公に寄ってしまう癖があるのでなにも考えずに書くと①になりがち。

そしてここまで考えてみると、じゃあ①と②のメリットとデメリットってなにさ! という疑問が出てくるので、自分なりにそこも考えてみます。

 

まず①のメリットとして、自分が考えたのは二つあります。

(1)臨場感がでる。例えば①の視点の取り方をして、語りを現在形多めにすれば、実際に主人公が見ているものをそのまま追っていくような語り方になる。色んな小説で、ハラハラするシーンなんかだと「タケシは追われているような気がして後ろを振り返った。誰もいない。また歩き出す。」のように三人称省略で一文短く、現在形多くなる、というのは正しく臨場感を狙ったものかなと思うのです。例えそこまでは読者寄りであっても、そこだけ主人公に入り込んで視点を共有するというか。

(2)感情移入できたときにガツンとくる。①の語り方をされた物語の主人公にもしも感情移入できたら、その感情移入を促進することが出来るのかな、と。まさに読者自身がその物語内部に入り込んでいく感覚を味わわせることが出来るのではないかと思うのです。語り手と一緒になって読者も主人公と視点を共有するという、そんな感覚。個人的にはそれは一人称の小説にもできないことなのでは? といまのところ思っています。何故かと言うと、一人称小説の場合は最初から語り手と読者は別人物だよ、視点を共有することはないよ、という暗黙の前提で書き始めるから。でも三人称の場合はそこらへんが曖昧なので、読者もその視点に入り込んでいけるのではないかと。

以上ふたつが、①に関する自分の思うメリットなわけです。ではデメリットはというと、これは自分が思う限りはとりあえずひとつで、それは感情移入出来なかったときに読むのがすごく苦痛ということ。

例えばアマゾンレビューとかでよく「主人公がぐずぐずしててむかついて全部読めなかった」みたいなものがあるんですが、それはすなわち感情移入できなかったということだと思うのです。そうして感情移入できないのに①の語り方をされると、完全に置き去りにされるというか、その物語そのものと心理的距離が空いてしまうのではないかな、と。主人公だけならともかく作者まで語り手まで一緒になって感情移入できないことを述べてるから、妙に冷めてしまうというか。

 

次に②なんですが、これはもう①の逆かな? と。端的に言ってしまえば、臨場感を出しづらい分、主人公に感情移入できなくてもそれをある程度離れた立場で語り手と共に眺める、という図式なので、読める。そして客観的な立場から主人公に対する評価が出来るので、寧ろ感情移入する必要はなくて、だからこそ感情移入できない主人公、という前提で書くことができるのではないかな、と。

 

以上のことは、素人丸出しな絵にすると以下の様になるのかな。

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そこで自分は考えるのです。①の書き方だと、日常の中の繊細な心理描写を描くのに向いてるのかな、と。例えば広くみんなに共感してもらえるような心の機微を、思い切って主人公に寄れるだけ寄って書く、というのもありだな……あ、「意識の流れ」?

ウルフとかマンスフィールドの「意識の流れ」の手法はそういうメカニズムなのかもしれない。だとしたら、その対偶たる手法、すなわち変なことを思いっきり客観的立場から書くというのもひとつ……あ、「マジックリアリズム」?

 

「いやいや、意識の流れもマジックリアリズムもそんな浅いもんじゃねーから!」と言われてしまえば、読書量の足りていない自分としては何も言えないのですが、少なくとも自分の中でちょいと辻褄があってしまった。んなるへそ、なるへそ。

そして共感できる主人公を、読者寄りの視点で書く、というのはまぁなかなかありそうな感じはするのです。共感しやすい主人公も客観的な視点も比較的アクのない書き方だから、大きく失敗することはなさそう。では逆にあえて共感できないような変な主人公に視点を寄せていく作品ってないのかな? と考えてみたんですが、自分の勉強不足かやっぱりそれはすごく難しいのか、思い浮かびませんでした。

エキセントリックな行動を起こしつつ、実はそこには切実な共感できる想いがあった、なんていうのは寧ろ「共感しやすい主人公」に分類されるものだろうしなぁ。まぁ難しいことには変わりないだろうけど。

というわけでそこの境地を切り開いていければ新しいものが書けるのではないかな? と思いつつ、しかしとりあえずもっと色んなものを読んでみないとなんとも言えないところかなぁ。

 

ちなみに、これは①と②が混じったような書き方なんじゃないかな、と個人的に思ったものがあります。

それが言わずと知れた、町田康さんの「告白」。

地の文はすごく客観的で読者寄りなんです。例えば冒頭は

 

「 安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。

 父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。

 あかんではないか。」

 

 

となっています。有名な冒頭……だと思う。

客観的立場から主人公の熊太郎を描きつつ、あまつさえ「あかんではないか」と完全に読者寄り目線から突っ込みを入れてる。これ本当にすごい。ちょいと個人的感想がでてしまいましたがともかく、基本的にこの視点の取り方、すなわち熊太郎と結構距離を取った語り方に終始してるんです。が、それなのに地の文にちょいちょい熊太郎の心の声、物語論的言い方をするなら直接話法が織り交ぜられるんです。それがぐぐっと感情移入を促す。すなわち主人公と結構距離を取りながら、意識の流れ的なことをやっているんじゃないかな、と。

ただ、これ危険なのが、一回やろうとしてみたことあるんですが、物語を書く力がある程度ないと機軸がブレる。客観的立場から書いてたつもりが、気が付くと視点が思いっきり主人公に寄っちゃったりする。

いまならこんな風に書けるかなぁちょっと試してみよう。

 

 

というわけでなんか本当に「お前のことはどーでもいいわ!」という声がちょいちょい聞こえてきそうなブログになってしまいました本当にごめんなさい。

初の真面目なブログ更新でしたが、こんなに疲れるもんなんですね! びっくりしました! ブロガーと呼ばれる方々への敬意が増しました!

今回のテーマと自分が語ったことについて、意見なり反論なりを抱いてくださる方が万が一いらっしゃれば、お気軽にコメントいただけたらとってもとっても嬉しい!

それでは目が霞んで頭がぼんやりしてきたので今日は少し本読んで眠ります。

最後まで呼んで下さったかたいたら本当にありがとうございます!

 

 

灯台へ (岩波文庫)

灯台へ (岩波文庫)

 

 

 

 

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

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告白 (中公文庫)

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ブログ開設しました。

ブログ開設しました!

 

テストも兼ねながらブログ紹介も兼ねながら実験も兼ねるというなかなか兼ねすぎてる記事を書きます。

 

まずこのブログの趣旨は、物語とはなんぞや? 小説をよりよく書くためにはどうしたらいいの? ということを、主に方法論的な立場から考えたり、或いはそういう立場に立って書評をしていこう、いやさせてください! というものになります。

そうやって物語について自分で考えたことを言語化しつつアウトプットすることによって、

  • 自分の頭の中の整理が出来る。
  • それにより考えたことをより突き詰めた上に明確化できる。
  • 備忘録にもなる。

という利点があります。すなわちみなさんもお察しの通り完全に

オラオラによるオラのためのブログ

とううことになるわけです大変申し訳ございません。申し訳ございませんついでにブログの機能で色々遊んでしまって誠に

いやふざけているわけではないのです!ちょっと使いこなすために色々っ!

 

というわけで色々物語についてべらべらと語るとは思いますが、

「は? なに頓珍漢なこと言ってんだこのチンカン野郎っ」

「お前のその説にはこういう視点が欠けてるんだよアホめ」

「それは違うぞザコ人間」

などありましたらお気軽にコメント下されば嬉しいです。

なにぶんブログはじめてなもので、至らないところだらけだとは思いますが何卒よろしくお願いいたしたいと思っている所存なわけでございます。

よろしくお願いいたします。