物語解体新書

しがない作家志望が物語を解体して分析する、備忘録的ブログです。

物語のカタルシスにおける基本的な構造

どうもこんにちは伊藤卍ノ輔です。

今回のテーマは多分、知ってる人にとっては「当たり前じゃんそんなこと」となるものだと思うのですが、自分がこれを上手く把握できていなかったためにあまり満足のいくものが書けなかった経験から、ちょっと書いてみようかと思います。

 

カタルシスとは、たしかギリシアかどこかの言葉で「浄化」という意味だったかと。

物語において「カタルシス」という場合には、感情を貯めていって貯めていって、スパークさせる! みたいなイメージなわけです。

もちろんそれが物語の作り方の全てではないんですが、カタルシスを使った物語作りは間違いなく王道で、少なくともうまくうまく作れればある程度読むに堪えるものになるのではないかと思うのです。

 

というわけで、ここでひとつの例を出します。自分が以前書いた小説のひとつなのですが、これはカタルシスの構造をもつ小説にしようかと思ったのです。

主人公は一人の青年で、一人暮らしを始めて数年経つ。青年は母親に死なれて、父親との確執を抱えたまま家を飛び出したのでした。そんな中である人物と出会い、父親に対する誤解に気付いていく中で、若いの方向へと心が傾いていく……というお話です。

これ実は、ちょっと難しいな、と今なら思うのです。こういうお話を書くならいっそのことカタルシスとか考えないで、主人公の一人称視点から、少し一文を長めにして、意識をなぞるような繊細な筆致で静かに時間を進める感覚で書いた方がよかった。

何故かというと、父親との確執から離れてしまった以上、感情がそれ以上蓄積していかない。感情(主に怒りとか不安とかの負の感情)が蓄積して蓄積して、臨界点に達したところで爆発する、というのがカタルシスの醍醐味なわけですが、上記の物語の構造だと、既に蓄積している感情に対して向き合って、それを解消していく、という書き方しかできない。だから個人的にはちょっと後悔の残るものになってしまいました。

いまの例でなにがいいたかったかと言うと、要するにカタルシス構造を使って小説を書くなら、なにか蓄積していくものがあって、それに対して反発する気持ちがあって、その蓄積が限界に達した時に、その反発心が表に現れる。……というのが基本構造としてあるわけです。

 

自分の好きな小説に、村田沙耶香氏の「しろいろの街の、その骨の体温の」があって、これがカタルシスの構造をうまく使っているので少しご紹介させていただきたい。ネタバレありなので気を付けて下さい。

前半パートと後半パートに別れており、前半パートは小学生時代の話で、おしゃれでみんなから人気の若葉、ちょっとださくて無神経な信子、そしてその中でぬるぬるやってく主人公の結佳の仲良し(?)三人組の微妙な関係がメインで描かれます。伊吹という男子の話も少し別枠で描かれるのですが、カタルシスというものを語るうえではそこまで重要じゃないので割愛。その三人はクラス替えでバラバラになってしまい、結局遊ばなくなってしまう、というところで前半終了。

後半はその三人が中学にあがり、また同じクラスになるところからスタートします。ですが、その関係性は微妙に変わってしまっている。中学校に入るとスクールカーストが明確になっていて、若葉は一番上のカースト、信子は一番下、そして主人公の結佳は下から二番目に落ち着いてしまっている。

ここで物語を面白くしてるのは、三人それぞれがスクールカーストの中でもがいてるところなのです。

若葉は一番上ではあるけど、一番上の一番下という位置づけで、ボス的存在の周りで一生懸命盛り上げ役に徹している。信子は一番下のカーストで、いじりと言う名の晒しもの的存在になっている。結佳はそういうクラスの中で出来るだけ息を潜めて、スクールカーストの暗黙の了解に触れないようにしている。

若葉が必死にボスのご機嫌取りをしたり、信子が同じく一番下のカーストの馬堀さんが笑い物にされているのを見て見ぬ振りしたり、そういうのが面白い、というか先を気にならせる仕掛けになっている。

スクールカーストという暗黙ではあるけど明確なルールを作って、そのルールに触れないように過ごさなければならない、というある種のハラハラ感で読ませているわけです。そうして、そのタブーに対するフラストレーションと、その流れに嫌々乗せられてなあなあに生きていく自分自身への嫌悪が、負の感情として蓄積されていく。だからここでのスクールカーストのルールは強くて縛りが多いほどその蓄積は大きくなっていくので、実際そう書かれている。

そうして、ある事件をきっかけにスクールカーストの外側に飛び出た結佳は、今度は自らそのカーストのタブーに触れていくのです。ここでカタルシス、要するにそれまでの負の感情に対する「浄化」が起きるわけです。

それまではそのタブーに触れないようにすることで物語を読ませる構造にしていた。その物語の力を丸ごと利用して、カタルシスを起こす。だからすごくハラハラする。それまで主人公に感情移入していた読者は「え、え、いいの!? そんなことして!」と思いながら読むのがやめられなくなってしまう。

話を自分が書いた小説に戻すと、あの話にはそういう強いインタレストになるものがなくて、ただ固まっていた感情が溶けていくだけだから、いま考えると失敗したなぁと思う訳です。だからこそ静かにその感情が溶けてゆく様を丁寧に描ければ、それはそれでよかったはずだんだけれども。これはすごく個人的な話。

 

という感じで、まぁ最初にも言った通り今回の記事は、わかってる人からしてみれば「なんだそんな当たり前の事」という話だとは思うのですが、自分にとってはそれでもなかなかに大きな発見だったので書いてみました。

実は自分の例にあげた小説を書いたあとに、「なんか違うんだよなぁ」と納得いかない気持ちが燻っていて、そのあとに「しろいろの街の、その骨の体温の」を読んで気が付いた、という経緯があるもので、だからこそ更に衝撃的な発見として記憶に残ったのかもしれません。ぼんやりとしていた物語のカタルシスの構造がはっきりと見えた、というかなんというか。

いずれにせよこれは物語の数ある形の内のひとつにしか過ぎないので、この形に固執しすぎるのは良くないとは思うのですが、書きたいテーマがカタルシスの構造と親和性が高いのならば、やっぱり上記を理解した上で書いていきたいと思うのです、ええ。

 

というわけでまたこんな時間ですいつも遅くなりすぎる!おやすみなさいみなさん!